カトリック情報 Catholics in Japan

スマホからアクセスの方は、画面やや下までスクロールし、「カテゴリ」からコンテンツを読んで下さい。目次として機能します。

9-7-6 ベーリングの後援者

2024-07-20 02:37:15 | 世界史

『絶対主義の盛衰 世界の歴史9』社会思想社、1974年
7 西欧に窓を開くピョートル大帝の大改革
6 ベーリングの後援者

 ロシア人のシベリア進出は十六世紀から本格的に行なわれているが、またこの地は流刑地として有名である。
 まさしく「シベリア流刑史は、シベリアの発見とともにはじまる」のである。
 そして十七世紀にもシベリア経営は、主としてコサックにより原住民を征服しつつ行なわれ、その間にはオホーツク海岸や、いまのベーリング海にのぞむ地方も探検された。
 このシベリア開発のおもな目的は良質の毛皮をうることにあり、これをもとめて、多くのロシア商人が出かけた。
 彼らによって都市がつくられ、これに応じて、農民の強制植民もすすめられた。
 ヤクーツク市は、シベリア東部進出の拠点となった。しかし十七世紀中ごろ、ロシア人がアムール川(黒竜江)の流域に進出すると、当時の清朝勢力と衝突するにいたった。両者のあいだにたびたび戦いがまじえられたが、これを平和的に解決したのは、一六八九年に成立したネルチンスク条約である。   

 その後もピョートルは中国との交渉に意をもちい、死去する直前に派遣されたロシア使節団は、一七二七年、清国とのあいだにキャフタ条約をむすんだ。
 これは蒙古方面との国境や、通商、外交上などについて定め、二十世紀にいたるまでのロシアと清国との関係をきめるものであった。
 一方、十七世紀末、ウラジミール・アトラソフ(?~一七一七)によってカムチャッカが発見されていたが、晩年のピョートルは、極東方面への探検隊派遣を計画した。そして海軍大尉ベーリング(一六八〇~一七四一、デンマーク人)の一隊が、一七二五年二月、ピョートルの死の直後、ペテルブルクを出発してヤクーツクへ向かった。
 ここからオホーツクへぬけるあいだにさえ、一行は飢えきって、死んだ馬の肉はむろん、荷袋や衣服の皮革まで食糧とするありさま、十月末ころ、やっとオホーツクへ達した。
 そして、一七二八年三月、苦心のすえニジニ・カムチャッカにたどりつき、船をつくって七月中ごろ出航、のちにベーリング海峡と名づけられた海上を進んだが、陸影を見なかったのでひき返し、二大陸が離れていることを知った。               

 その後、一行がいろいろな情報や物資をえて、ペテルブルグへ帰ったのは、一七三〇年三月であった。
 さらにこの事業を完成させるため十分に準備をととのえ、一七四○年、ベーリングは二度目の探検に出発した。
 そして一行はアラスカに達し、アリューシャン群島を発見したりした。
 しかし帰途、ベーリングは難船して無人島(いまのベーリング島)にうちあげられ、そこで生涯をとじた……。
 この晩年のピョートルは家庭生活において、めぐまれなかった。
 最初の妻エウドーキアとの不和については前述したが、彼女は修道院にはいり、やがて正式に離婚する。
 皇太子アレクセイも成人すると、この母に味方し、父を敵とするようになった。
 彼は「改革」に反対する大貴族の陰謀にくみし、
 「親父が死ねば、わたしがツァーリになる。
 そのときにはペテルブルグは荒野となり、首都はふたたびモスクワになるだろう。
 海軍も廃されるし、スエーデンとの戦争もやめる」

と公言したが、ついに「反逆罪」にとわれ、一七一七年死んだ。
 この死因については、さまざまなうわさが流されていた。
 ビョートルははじめ、アレクセイを廃嫡して修道院にいれる考えであったが、この息子は父にそむいてウィーンに逃亡し、ついで本国に送還されると、軍法会議にかけられた。
 そこで死刑が宣告され、二日後に執行されたというが、一説によると、この日の朝、父と九名の将官のまえで取り調べをうけ、拷問中に死んだともいう。
 ピョートルの二度目の妃がエカテリナで、一七〇二年夏、北方戦争中、敵の捕虜のなかから見つけられたという女性である。

 その後五年間ほどを、彼女がどのように暮らしたかはわかっていない。
 一説によると、彼女は本名をマルタとよび、リトワの農奴の娘であったというが、ロシア軍に捕われてからは、おそらく「遠征妻」「兵士妻」など、いわゆる陣中のなぐさみものとなったのではなかろうか。
 記録ではっきりしてくるのは、シェレメーチェフ元帥家にいるときからで、やがてメンシコフ公爵邸にうつっているが、これはかこいものであったらしい。
 たまたまピョートルがここを訪れたとき、一目見て好きになり、むかえて皇妃とした。
 このようにいかがわしい素姓の女性であったから、エカテリナは学問も、教養もなく、文字さえも読めなかったという。
 ただ持ちまえの美貌のうえに、よく気がきき、客扱いが巧みであったのが、ピョートルの気にいったらしい。
 しかしさすがのピョートルも、この皇妃を外国の王室の前にだすのは気がひけたとみえて、フランス訪問のさいにも同伴はしなかった。
 彼女の好みは派手であったが、あるドイツ王女の評によると化粧は「道化役者」のようで、衣裳は「流行おくれ」で、「一目でおさとが知れる」と。
 ところでピョートルの最期は、偶然がきっかけとなった。
 一七二四年十一月のある日、国内視察中に、たくさんの兵士たちを乗せたボートが、浅瀬に乗りあげているのに出くわした。
 ピョートルはみずから水中にとびこんで腰までつかり、大男の強い腕力をもって、これを救った。その水がたいへん冷たかったためか、彼は急に発熱し、視察をあきらめてペテルブルグに帰ったのち、翌二五年一月末、世を去った。
 五十二歳。ロシア絶対主義国家の原型があとに残された。
 一七二二年、ピョートルは皇帝自身が後継者を指名する帝位継承法を制定していた。
 しかし彼はこれを行使せず、死にのぞんで何か書こうとしたが、読みとれたのは、「すべてを………あたえよ」という言葉だけであったという。




最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。