『絶対主義の盛衰 世界の歴史9』社会思想社、1974年
2 ブルボン王朝余話、フランスの大政治家リシュリュー
5 マザランの勝利
つづいて「貴族のフロンド」がおこった。
この反乱の中心になったのは、まえのフロンド鎮定に功があったコンデ親王である。
手柄に思いあがったこの大貴族は、自分と配下の者どものために地位、金銭などを過大に要求した。
一六五〇年一月、政府はコンデを逮捕したが、その姉ロングビル公妃たちは、彼と関係が深い諸地方の蜂起をうながし、ふたたび内乱となった。
名将テュレンヌもロングビル公妃の色香に迷い、反乱に与(くみ)した。
パリではまた、高等法院の司法官や市民が貴族と連合戦線をはった。
一六五一年二月、マザランはドイツに亡命し、コンデは自由の身となった。
もしフロンド派が団結していたならば、王権は危機におちいったかもしれない。
しかし彼らは私利私欲や嫉妬心などにとらわれていた。
五一年末コンデはパリの市民たちと仲違いして、地方に退き、マザランはフランスに帰ってきた。
五二年になると、テュレンヌは王室側へ寝返ってしまった。
この五二年春、コンデはパリに進軍し、七月初めテューレンヌがひきいる王軍と、サン・タントワーヌ街の門のところで戦い、あやうくパリに逃げこんだ。
このとき、王弟オルレアン公ガストンの娘モンパンシエ(一六二七~九三)、すなわちグランド・マドモワゼル(大令嬢)とよばれた女性が、バスティーユの大砲を王軍に発射して、コンデを助けたことは有名である。
マザランに対する反感と男まさりの冒険好きから乱に投じた彼女は、ロングビル公夫人などとともに、フロンド派をいろどる「女傑(アマゾーンヌ)たち」の一人であろう。
しかしパリに入ったコンデも、長くそこには止まれなかった。
パリではフロンド派、マザラン派、中立派など諸勢力が対抗しており、コンデはまた、市民たちとおりあいが悪くなり、ネーデルラント方面へのがれた。
ここでコンデはスペイン軍に頼ったが、これはまえの場合と同じようにフロンド側を動揺させた。
一六五二年八月、もう一度マザランがいまのベルギー方面へ亡命するようなこともあったが、その年十月、乱に対抗しつつ各地を転々としていたルイ十四世は、母とともにパリにはいった。
マザランはさらに事態が静まるのを待って、翌年二月帰ってきた。
フロンドの乱において、一六五〇年ころから「オルメー(楡の木)」という結社を中心として、ボルドーでおこった動きは注目すべきものであろう。
これは元来、職人たちが互助のために組織したもののようであるが、中小商工業者や法曹ブルジョワなどが参加し、イギリスの革命思想の影響をうけて、民主的な要求をかかげた。
当時、ピューリタン革命により共和国となっていたイギリスからは、数名の工作員も派遣された。
「オルメー」の徒党はボルドーの支配権をにぎろうとして、五二年六~七月、大衆の支持をえて一時的にこれに成功した。
しかし彼らは目的においても、団結においても強固ではなかった。
たとえばカトリックもいたし、ユグノーもいた。
国王派もおれば、共和国を理想とする人たちもあった。
親英派がいるかと思えば、スペイン側にかたむく者もみうけられた。
内部的対立は「オルメー」を弱める。
これに乗じた市の保守勢力は、王軍が近づいてきたのをさいわい、一六五三年七月、この結社の廃止を宣言し、つづいてボルドー自体も王軍に屈服するにおよんで、フロンドの乱は終わることとなった。
この乱のあいだ、摂政アンヌとマザランは遠く離れた場合でも、緊密な連絡をとってたたかいつづけた。
二人の関係について、たんなる友情以上のもの、すなわち恋愛関係、あるいは肉体関係さえも臆測されている。
フロンドの乱におけるパリやボルドーなどの市民たちの反抗や、また当時、ほとんど全国的に展開していた農民一揆については、これらを民衆の反封建闘争と評価するとともに、一六二〇年代から七〇年代にいたる民衆運動の路線で、とらえようとする歴史家もある(ただし、これに対ては反論も多い)。
なおカトリックのスペインと通じたコンデは、一方ではイギリスのプロテスタント(ピューリタン)のクロンウェル政権とも連絡し、軍資金や兵員をうる交渉をしたり、あるいはフランスのプロテスタントを反乱にまきこもうとしたが、彼らはだいたい王権に忠誠で、この試みは成功しなかった。
マザランの方でも、ステュアート朝(ピューリタン革命で倒れた)の王政復古運動にいっさい関係しないで、クロンウェルを刺激しないようにつとめた。
一六五四年、イギリスはコンデとの関係を絶った。
その後もコンデはフランス北部で、王権にむなしい抵抗をつづける。
しかし一六五九年、スペインがフランスに屈すると、ついに王権に帰順し、ゆるされて宮廷の人となった。
これをもって、ルイ十四世とマザランに対する大貴族の反抗は、名実ともに終わったといえよう。