聖ラウレンシオ・ユスチニアノ司教証聖者 St. Laurentius Justiniani E. C. 記念日 9月 5日
多くの他の聖人方がそうであるように、聖ラウレンシオ・ユスチニアノも信心深い母の子と生まれた。父は早くこの世を去ったから、その忘れ形見五人を養育する大任はか弱い母の双肩にかかって来た。彼女はその重責を果たすためには自分一個の力のあまりにも微弱に過ぎることをよく知っていた。それで彼女は全能の天主に信頼し、しばしば祈り、及ぶ限りの事をした。為に天主も豊かな祝福を与え給い、子はいずれも健やかに善良な心をもって生い立った。それは何者にも換え難い母の歓びであった。
その中でもラウレンシオは一際すぐれた子であった。彼は1381年の生まれであったが、才能あり柔和な性格で、あらゆる人に恭倹かつ親切であった。彼は子供の時分から極めて真面目で、何か大きな事を考えているように見えた。そして時々一種の野心を示すようなこともあったので、母はそれを戒め、彼が傲慢に流れるのを防ぐために、時々傲慢は地獄に落ちる道である事を言い聞かせた。
が、その中も心配する必要がなくなった。というのは、ラウレンシオの頻りに考えていたのは聖なる生活に就いてであることが解ったからである。彼は後年その著書の中に自ら記して曰く「19歳頃のことである。私は世間に平安を探し求めたがついにそれを見出すことが出来なかった。すると、ある晩の夢に太陽の如く美しい方が現れて『我が子よ、汝は何故平安を尋ねて所々をさまよい歩くのか?汝の求めている者は我である。もし汝が全く我に身を献げるならば、我は汝の望む物を必ず与えよう』と仰せられた。そして『御身はどなたでいれせられますか?』と私がお尋ねすると、そのお答えには『天主の叡智!』とあった。私は即座に『私は御身のものでございます』と申し上げた。これは一場の夢に過ぎなかった。しかし私の心は深い深い感動を覚えたのである」と。
彼はそれから一切の顛末を親戚に当たる一司祭に打ち明けた。同時に全く身を天主に献げたいという望みに就いても彼に告げる所があった。自らも甚だ敬虔であったその司祭は、果たしてラウレンシオが修道生活に召し出しを蒙っているか否かを試そうと思い、まず彼に苦行で身を鍛えることを教えた。
同じ疑惑は母もやはり抱いていた。で、彼女はラウレンシオが結婚することを希望し、花嫁の候補者まで探し出して来た。しかしラウレンシオは承知せず、却って暇を乞うて司祭達の会に入った。
彼は直ぐさま真の苦行の生活を始め、会員一同の模範となった。彼は厳寒酷暑に耐え、病苦を忍び、殊に謙遜の徳を心がけて卑賤な仕事は何でも喜んでこれを為した。人に讒謗されても彼は弁解しない。のみならず謝罪さえした。彼は勉学も決して怠らなかった。そして規定の年齢に達すると、叙階の秘蹟を受けて司祭に挙げられた。
それからラウレンシオはよりよく天主に仕える為にどこか静かな所に退きたいと思った。けれども天主の御旨はそこになかったのであろう、彼はまだ若年の身ながら選ばれて、間もなく会長の大任を負わされ、従順の誓願に従いどうしてもこれを引き受けねばならなくなった。彼は賢明に会を治め調えた。その為ついに会の創立者と目されるに至り、教皇オイジェニオ4世から戒律の認可を与えられた。
ラウレンシオはすべての人を愛してはいたけれど、また彼等の熱心の冷えぬように絶えず訓告を与えもした。彼は胸が弱く声量に乏しかったから、大雄弁家となる素質はなっかたが、少数の人々を相手に語る時には、その信仰と学識の深さがほの見えるような、実に立派な説教をした。彼はまた筆を執っても幾多の書物を著している。
50歳の頃彼は教皇からヴェニスの大司教に任命された。彼は己をその重職に耐えぬ者として百方辞退し、何人か他の適任者を任命せられるよう教皇に懇願した。しかし教皇は頑として聴かれず、果ては従順の名において大司教就任を厳命されたから、彼もやむなくお受けするに至った。それでも彼は前と同様の生活を続け、相変わらず苦行をなし、出来るだけ貧しい暮らしに甘んじたのであった。
大司教としての彼は理想的にその教区を治め、寛厳も宜しきを得、貧民にはわが所有物の一切を施し、聖会の権利は勇ましく擁護し、すべての司祭に模範を示した。
ラウレンシオの名声は四方に雷の如く轟いた。教皇は彼をヴェニスの最初の総主教に挙げた。彼は謙遜にこの位を拝受したが、その後4年を経た1455年、74歳を一期として帰天した。彼は生来強い方ではなかったけれど、厳格な生活にも拘わらず大方は無病息災に過ごし、臨終にも軟らかい床を望まなかった。死ぬ前にには葬式を極く質素に執り行うように遺言し死後67日目に埋葬された。その間も彼の遺骸には何の腐敗の兆しも見られなかった。彼が聖人の列に加えられたのは1524年教皇クレメンス7世の御世のことであった。
教訓
己を全く御旨に委ねるがよい。そうすれば主も我等を導き強め、一切を耐え忍ぶ力を与えてくださるであろう。
多くの他の聖人方がそうであるように、聖ラウレンシオ・ユスチニアノも信心深い母の子と生まれた。父は早くこの世を去ったから、その忘れ形見五人を養育する大任はか弱い母の双肩にかかって来た。彼女はその重責を果たすためには自分一個の力のあまりにも微弱に過ぎることをよく知っていた。それで彼女は全能の天主に信頼し、しばしば祈り、及ぶ限りの事をした。為に天主も豊かな祝福を与え給い、子はいずれも健やかに善良な心をもって生い立った。それは何者にも換え難い母の歓びであった。
その中でもラウレンシオは一際すぐれた子であった。彼は1381年の生まれであったが、才能あり柔和な性格で、あらゆる人に恭倹かつ親切であった。彼は子供の時分から極めて真面目で、何か大きな事を考えているように見えた。そして時々一種の野心を示すようなこともあったので、母はそれを戒め、彼が傲慢に流れるのを防ぐために、時々傲慢は地獄に落ちる道である事を言い聞かせた。
が、その中も心配する必要がなくなった。というのは、ラウレンシオの頻りに考えていたのは聖なる生活に就いてであることが解ったからである。彼は後年その著書の中に自ら記して曰く「19歳頃のことである。私は世間に平安を探し求めたがついにそれを見出すことが出来なかった。すると、ある晩の夢に太陽の如く美しい方が現れて『我が子よ、汝は何故平安を尋ねて所々をさまよい歩くのか?汝の求めている者は我である。もし汝が全く我に身を献げるならば、我は汝の望む物を必ず与えよう』と仰せられた。そして『御身はどなたでいれせられますか?』と私がお尋ねすると、そのお答えには『天主の叡智!』とあった。私は即座に『私は御身のものでございます』と申し上げた。これは一場の夢に過ぎなかった。しかし私の心は深い深い感動を覚えたのである」と。
彼はそれから一切の顛末を親戚に当たる一司祭に打ち明けた。同時に全く身を天主に献げたいという望みに就いても彼に告げる所があった。自らも甚だ敬虔であったその司祭は、果たしてラウレンシオが修道生活に召し出しを蒙っているか否かを試そうと思い、まず彼に苦行で身を鍛えることを教えた。
同じ疑惑は母もやはり抱いていた。で、彼女はラウレンシオが結婚することを希望し、花嫁の候補者まで探し出して来た。しかしラウレンシオは承知せず、却って暇を乞うて司祭達の会に入った。
彼は直ぐさま真の苦行の生活を始め、会員一同の模範となった。彼は厳寒酷暑に耐え、病苦を忍び、殊に謙遜の徳を心がけて卑賤な仕事は何でも喜んでこれを為した。人に讒謗されても彼は弁解しない。のみならず謝罪さえした。彼は勉学も決して怠らなかった。そして規定の年齢に達すると、叙階の秘蹟を受けて司祭に挙げられた。
それからラウレンシオはよりよく天主に仕える為にどこか静かな所に退きたいと思った。けれども天主の御旨はそこになかったのであろう、彼はまだ若年の身ながら選ばれて、間もなく会長の大任を負わされ、従順の誓願に従いどうしてもこれを引き受けねばならなくなった。彼は賢明に会を治め調えた。その為ついに会の創立者と目されるに至り、教皇オイジェニオ4世から戒律の認可を与えられた。
ラウレンシオはすべての人を愛してはいたけれど、また彼等の熱心の冷えぬように絶えず訓告を与えもした。彼は胸が弱く声量に乏しかったから、大雄弁家となる素質はなっかたが、少数の人々を相手に語る時には、その信仰と学識の深さがほの見えるような、実に立派な説教をした。彼はまた筆を執っても幾多の書物を著している。
50歳の頃彼は教皇からヴェニスの大司教に任命された。彼は己をその重職に耐えぬ者として百方辞退し、何人か他の適任者を任命せられるよう教皇に懇願した。しかし教皇は頑として聴かれず、果ては従順の名において大司教就任を厳命されたから、彼もやむなくお受けするに至った。それでも彼は前と同様の生活を続け、相変わらず苦行をなし、出来るだけ貧しい暮らしに甘んじたのであった。
大司教としての彼は理想的にその教区を治め、寛厳も宜しきを得、貧民にはわが所有物の一切を施し、聖会の権利は勇ましく擁護し、すべての司祭に模範を示した。
ラウレンシオの名声は四方に雷の如く轟いた。教皇は彼をヴェニスの最初の総主教に挙げた。彼は謙遜にこの位を拝受したが、その後4年を経た1455年、74歳を一期として帰天した。彼は生来強い方ではなかったけれど、厳格な生活にも拘わらず大方は無病息災に過ごし、臨終にも軟らかい床を望まなかった。死ぬ前にには葬式を極く質素に執り行うように遺言し死後67日目に埋葬された。その間も彼の遺骸には何の腐敗の兆しも見られなかった。彼が聖人の列に加えられたのは1524年教皇クレメンス7世の御世のことであった。
教訓
己を全く御旨に委ねるがよい。そうすれば主も我等を導き強め、一切を耐え忍ぶ力を与えてくださるであろう。