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聖アルフォンソ・ロドリゲス証聖者  St. Alphonsus Rodriguez C

2024-10-31 16:50:22 | 聖人伝
聖アルフォンソ・ロドリゲス証聖者  St. Alphonsus Rodriguez C. 記念日 10月 31日


 旧約の義人ヨブは暫くの間に財産を失い、一朝にして7人の子に死なれるなど、不慮の災禍が打ち続いても、更に天主を怨む心なく「主与え給い、主取り給う、主の聖名は讃むべきかな!」と祈ったという。この感ずべき態度に倣い、不幸のどん底に於いても主を讃美した聖人は決して少なくないが、本日の主人公アルフォンソ・ロドリゲスもその一例とする事が出来よう。
 この人は1531年7月25日、スペインのセゴヴィアに呱々の声を挙げた。富裕な商人を父に持った彼は、春の夢にも似た美しい少年時代を過ごし、やがてその財産を相続して愛する妻との間に数人の子供を儲け、相も変わらぬ恵まれた生活を続けたが、幾干もなく天主の酷烈な試練の聖手は、人々の羨望の的であった彼の上に下った。
 まず妻に先立たれたのが不運の始めで、それからは可愛い我が子が次々に死んでゆく。商売の方も、する事なす事いすかの嘴と食い違って失敗ばかり打ち続く、流石の彼も茫然自失する外はなかった。
 勿論、悪魔が人を陥れるべく暗躍するのはかような時である、彼もその囁きに唆されて自殺を思ったことも幾度かあったか知れない。けれども彼はついにその誘惑を退け、敢然として叫んだ。
 「主よ、御身は私のすべてを奪い去り給う思し召しでございますか?それならば私の身も主にお献げ致しましょう!」
 かくてアルフォンソは早速ヴァレンチア市のイエズス会修道院を訪れ、院長に面会して入会の許可を得た。しかし年齢既に40に達し、ラテン語の素養もない彼は司祭になる事が出来ず、ただ一介の平修士たるに甘んぜねばならなかった。それでも前途の試練に一層信仰と謙遜との念を深めた彼は、易々としてこの院長の裁定に従ったのである。
 半年の後、アルフォンソはマロルカ島のパルマという町にある修道院に派遣され、それから殆ど40年というものを玄関番として過ごした。嘗て有数の豪商と人々に尊敬されていた彼は、今や修士司祭の出入り毎に玄関先に跪いてその掩祝をこい、掬躬如として訪問客を案内し、乞食風情にも愛想良く物を施し、時には恩を知らぬ彼等が無礼な言葉を吐いても更に意に介せず、寧ろ謙遜の為にそれを喜びとし、その侮辱を彼等の改心の犠牲として献げるのであった。実際それには並々ならぬ忍耐が必要であったに相違ない。
 いつか彼の聖徳の評判は天下に喧伝されるようになった。というのは、彼に接するほどの人は皆、雄弁な司祭の説教よりも、素朴な彼の態度に深い感動を呼び起こされたからである。のみならず時折彼が口にする短い言葉の端々には、驚くべき天主の叡智が輝いていた。それで人々は争って彼に教訓を求め、代祷を願いに来た。そして中には一国の元首を始め世俗の顕官、紳商もあれば、司教大司教の如き聖会の高位者もあった。
 ここに於いてパルマ修道院の院長も、神学の素養こそなけれ、聖霊の御照らしにすぐれた超自然的知識を持つアルフォンソに敬服し、熱心に勧めて著作の筆を取らせた。「修徳指南」及び自叙伝は即ちその時の産物である。この中前者は既に邦語にも訳されているが、それによっても彼の謙遜な心に隠された偉大な叡智の光を看守することが出来よう。
 さてアルフォンソは白髪の老人となってから胃腸を患い、その激しい疼痛をよく耐え忍んだが、ついに1617年10月31日、命数尽きて安らかに、眠るが如くこの世を去った。

教訓

 我等も聖アルフォンソ・ロドリゲスの如く、不幸に於いても主の御摂理に委ねる事を心がけよう。そうすればよしやその不幸が天主の御罰であっても、我等はそこから豊かな聖寵を引き出すことが出来るのである。


神のために忍んだ災難と繁栄との違いは、
金と鉛の違いよりも大きい。
聖アルフォンソ・ロドリゲス






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