第一部 進歩への刺激
1、召命のすばらしさ
まずこの点については、皆さんのなかでも躍進している人々にも、拍車をかけずにはいられません。というのは、たしかにあなたがたは、お国のなかだけでなく他の多くの国々でも、たくさんの人々からかけられている期待に応えなければならない以上、学問にも修徳にも徹底的にあたらなければならないからです。この人たちは、神があなたがたに恵んでおられる内的・外的のかずかずの援助と保護とをまのあたりにして、きわめて特別な成果を当然のこととしてあなたがたに期待しています。
ですから、「りっぱに行なう」というあなたがたのこれほど大きな義務は、ありきたりなことでは十分に果たしきれないでしょう。自分の召命がどのようなものか顧みてください。そうすれば、他の人々にとっては大したことであったとしても、自分にはとるに足りないことだと悟るでしょう。そのわけは、神がすべての信者にされたように、あなたがたを「闇のなかからご自分の驚くべき光のなかに招き」、「愛する子の国にぢけしてくださった」からだけではありません。さらに神が、あなたがたに純潔を保たせ、霊的な事柄において神への奉仕により堅く結ばれた愛をいだかせようと、世聞という危険な大海原から皆さんを引き出してくださったからでもあります。それは財産とか名誉とか快楽とかへの欲望の風、あるいはその反対に、こうしたものをすっかり失ってしまうのではないかという恐怖の風といった浮世に吹き荒れがちな暴風に、あなたがたの良心がのみ込まれる憂き目をみないよう、神がおはからいになったからなのです。
それだけではありません。そのうえ神は、あなたがたが知性と愛とをひたすら神に造られた目的、すなわち神の誉れと栄光、および自分の救いと隣人への援助にさし向け、そのために使い果たすことができるようにと、あなたがたの知性と愛がこうしたくだらぬことに捕われたり、さまざまのことに分散させられてしまわないようにしてくださいました。
およそキリスト教の修道会はすべて、この目的をめざさなければならないのですが、あなたがたは、ただ一般的な目標をかかげるだけでなく、全生涯と全活動をことごとくこの目的、つまり神の栄光と隣人の救いとにささげて、自分を絶えまない奉献としなければならないこの(イエズス)会に神から召し出されたのです。そして、ただ模範と熱烈な祈りだけではなく、神の摂理によってお互いの助け合いのために定められたその他の外的手段も用いて、それに協力しなければならないのです。これを思えば、あなたがた自身が選んだ生活がどんなに崇高で、すぐれたものであるか.おわかりになるでしょう。人間のなかばかりでなく、天使のなかにさえ、みずからの創造主に栄光を帰し、被造物をそれぞれの能力の許すかぎり、創造主のもとに難くこと以上に気高い役務は見いだせるものではありません。
2、熱心の利点
したがって、自分自身の召命をとくと考えてください。それはひとつには、これほどの恵みを抑に深く感謝するためであり、二つには、この召命に答えることができるよう、また元気よく勤勉に励むことができるよう、特別な恵みを祈り求めるためにほかなりません。
この気概と勤勉は、これほどの目的を達成するのに絶対なくてはならないものなのです。そして、主イエズス・キリストヘの愛のために行なう勉学やその他の務めにあたって、怠惰やなまぬるさや嫌気などは、自分の目的に反する大敵であるとみなさなければなりません。それぞれ自分を激励するために、いい加減のところで満足しているような人ではなく、いちばん猛烈な努力家を模範にしてください。
あなたがたが永遠なものを求めるよりもさらに勤勉に、命がけで、この世の子らが地上の一時的なものを追い求めるなどということを、平然と見すごしてはなりません。あなたがたが〔永遠の〕生命に向かってゆくよりもずっと足早に、かれらが死に向かって走ってゆくのを恥ずかしく思いなさい。もし廷臣が地上の君主のご愛顧をこうむろうとして、あなたがたが天上の主の恵みのためにするよりもいっそう忠勤を励むならば、また兵士が戦勝の名誉と分捕品めあてに、あなたがたがこの世と悪魔と自我とに打ち勝ち、永遠のみ国と栄誉とを獲得するためにするよりも、さらに真剣に準備し、勇敢に戦うならば、あなたがたは自分を無精者とみなさなければなりません。
「弓は引きしぼることで折れ、気力は怠慢で折れる」のに対し、ソロモンも言うとおり、「働く者の魂は気力にみなぎる」からです。どうか、勉学にも修徳にも、分別ある聖なる熱意がさめないよう努めてください。勉学でも修徳でも、ひとつの真剣な行為は無数のだらけた行為にまさるものですし、怠け者が長年かかっても熟達できないことを、努力家が短時目に身につけるのは世の常なのです。
学問では、勉強家と不勉強家の力の差ははっきりと現われるものですが、それと同じことが、私たち人間をとりこにしている欲望と弱さとに打ち勝ち、徳を修める場合にも起こります。怠惰な人は自己と戦わないので、心の平和に至ることも、どんな徳を完全に修めることも、なかなかできないのはおろか、死ぬまでできないことさえあるのにひきかえ、よい意味での猛烈人間は、そのどちらにも短いあいだに長足の進歩をとげることは確実だからです。
たしかに、生きがいを感じて生活している人がいるとすれば、それは怠け者ではなく、神への奉仕に熱心な人であることは、経験に照らしてもわかります。それもそのはず、この人々は、克己に励み、利己心を打ち砕く努力を重ねるにつれて,自分のほうから、あらゆる欲望と煩いを利己心もろとも根こそぎにしてしまうからです。また、こうして徳の習性を身につけるようになりますから、ひとりでに、その習性のままに、らくらくと喜んで行動するようになるのです。
他方、いとも慈愛深い慰め主である神の側からすれば、この人々は、このように励むことによって、神の聖なる慰めをいただく下準備ができています。「わたしは勝利を得る者に隠れたマナを与える」とあるとおりです。ところが、なまぬるさは、のべつ煩わしさを感じながら暮らす原因なのです。
なぜなら煩いの根、つまり利己心を抜きとることをおろそかにさせ、神の恵みを受けるに値しない者と.させてしまうからです。それだけに、あなたがたは種々の善業をするさいに、大いに奮発しなければなりません。そうしてこそ、あなたがたはすでにこの地上で聖なる熱意の成果を体験して、めざす自己完成をみるばかりでなく、いまの生活で充実感を味わうことでしょう。
それに、たびたびそうしなければならないことですが、もし永遠の報いに思いをはせるなら、聖パウロの言葉にたやすく納得がゆくことでしょう。聖パウロによれば、「いまの時のいろいろな苦しみは、将来私たちに表わされようとしている栄光に比べればとるに足りない」のです。なんというのも、「いまの時のこのしばらくの軽い艱難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、永遠の栄光をもたらすからです」。
そしてこれは、神をたたえ、神に奉仕するすべてのキリスト者の身に実現することなのです.
聖イグナチオ・ロヨラ「コインブラのイエズス会士への書簡」
1、召命のすばらしさ
まずこの点については、皆さんのなかでも躍進している人々にも、拍車をかけずにはいられません。というのは、たしかにあなたがたは、お国のなかだけでなく他の多くの国々でも、たくさんの人々からかけられている期待に応えなければならない以上、学問にも修徳にも徹底的にあたらなければならないからです。この人たちは、神があなたがたに恵んでおられる内的・外的のかずかずの援助と保護とをまのあたりにして、きわめて特別な成果を当然のこととしてあなたがたに期待しています。
ですから、「りっぱに行なう」というあなたがたのこれほど大きな義務は、ありきたりなことでは十分に果たしきれないでしょう。自分の召命がどのようなものか顧みてください。そうすれば、他の人々にとっては大したことであったとしても、自分にはとるに足りないことだと悟るでしょう。そのわけは、神がすべての信者にされたように、あなたがたを「闇のなかからご自分の驚くべき光のなかに招き」、「愛する子の国にぢけしてくださった」からだけではありません。さらに神が、あなたがたに純潔を保たせ、霊的な事柄において神への奉仕により堅く結ばれた愛をいだかせようと、世聞という危険な大海原から皆さんを引き出してくださったからでもあります。それは財産とか名誉とか快楽とかへの欲望の風、あるいはその反対に、こうしたものをすっかり失ってしまうのではないかという恐怖の風といった浮世に吹き荒れがちな暴風に、あなたがたの良心がのみ込まれる憂き目をみないよう、神がおはからいになったからなのです。
それだけではありません。そのうえ神は、あなたがたが知性と愛とをひたすら神に造られた目的、すなわち神の誉れと栄光、および自分の救いと隣人への援助にさし向け、そのために使い果たすことができるようにと、あなたがたの知性と愛がこうしたくだらぬことに捕われたり、さまざまのことに分散させられてしまわないようにしてくださいました。
およそキリスト教の修道会はすべて、この目的をめざさなければならないのですが、あなたがたは、ただ一般的な目標をかかげるだけでなく、全生涯と全活動をことごとくこの目的、つまり神の栄光と隣人の救いとにささげて、自分を絶えまない奉献としなければならないこの(イエズス)会に神から召し出されたのです。そして、ただ模範と熱烈な祈りだけではなく、神の摂理によってお互いの助け合いのために定められたその他の外的手段も用いて、それに協力しなければならないのです。これを思えば、あなたがた自身が選んだ生活がどんなに崇高で、すぐれたものであるか.おわかりになるでしょう。人間のなかばかりでなく、天使のなかにさえ、みずからの創造主に栄光を帰し、被造物をそれぞれの能力の許すかぎり、創造主のもとに難くこと以上に気高い役務は見いだせるものではありません。
2、熱心の利点
したがって、自分自身の召命をとくと考えてください。それはひとつには、これほどの恵みを抑に深く感謝するためであり、二つには、この召命に答えることができるよう、また元気よく勤勉に励むことができるよう、特別な恵みを祈り求めるためにほかなりません。
この気概と勤勉は、これほどの目的を達成するのに絶対なくてはならないものなのです。そして、主イエズス・キリストヘの愛のために行なう勉学やその他の務めにあたって、怠惰やなまぬるさや嫌気などは、自分の目的に反する大敵であるとみなさなければなりません。それぞれ自分を激励するために、いい加減のところで満足しているような人ではなく、いちばん猛烈な努力家を模範にしてください。
あなたがたが永遠なものを求めるよりもさらに勤勉に、命がけで、この世の子らが地上の一時的なものを追い求めるなどということを、平然と見すごしてはなりません。あなたがたが〔永遠の〕生命に向かってゆくよりもずっと足早に、かれらが死に向かって走ってゆくのを恥ずかしく思いなさい。もし廷臣が地上の君主のご愛顧をこうむろうとして、あなたがたが天上の主の恵みのためにするよりもいっそう忠勤を励むならば、また兵士が戦勝の名誉と分捕品めあてに、あなたがたがこの世と悪魔と自我とに打ち勝ち、永遠のみ国と栄誉とを獲得するためにするよりも、さらに真剣に準備し、勇敢に戦うならば、あなたがたは自分を無精者とみなさなければなりません。
「弓は引きしぼることで折れ、気力は怠慢で折れる」のに対し、ソロモンも言うとおり、「働く者の魂は気力にみなぎる」からです。どうか、勉学にも修徳にも、分別ある聖なる熱意がさめないよう努めてください。勉学でも修徳でも、ひとつの真剣な行為は無数のだらけた行為にまさるものですし、怠け者が長年かかっても熟達できないことを、努力家が短時目に身につけるのは世の常なのです。
学問では、勉強家と不勉強家の力の差ははっきりと現われるものですが、それと同じことが、私たち人間をとりこにしている欲望と弱さとに打ち勝ち、徳を修める場合にも起こります。怠惰な人は自己と戦わないので、心の平和に至ることも、どんな徳を完全に修めることも、なかなかできないのはおろか、死ぬまでできないことさえあるのにひきかえ、よい意味での猛烈人間は、そのどちらにも短いあいだに長足の進歩をとげることは確実だからです。
たしかに、生きがいを感じて生活している人がいるとすれば、それは怠け者ではなく、神への奉仕に熱心な人であることは、経験に照らしてもわかります。それもそのはず、この人々は、克己に励み、利己心を打ち砕く努力を重ねるにつれて,自分のほうから、あらゆる欲望と煩いを利己心もろとも根こそぎにしてしまうからです。また、こうして徳の習性を身につけるようになりますから、ひとりでに、その習性のままに、らくらくと喜んで行動するようになるのです。
他方、いとも慈愛深い慰め主である神の側からすれば、この人々は、このように励むことによって、神の聖なる慰めをいただく下準備ができています。「わたしは勝利を得る者に隠れたマナを与える」とあるとおりです。ところが、なまぬるさは、のべつ煩わしさを感じながら暮らす原因なのです。
なぜなら煩いの根、つまり利己心を抜きとることをおろそかにさせ、神の恵みを受けるに値しない者と.させてしまうからです。それだけに、あなたがたは種々の善業をするさいに、大いに奮発しなければなりません。そうしてこそ、あなたがたはすでにこの地上で聖なる熱意の成果を体験して、めざす自己完成をみるばかりでなく、いまの生活で充実感を味わうことでしょう。
それに、たびたびそうしなければならないことですが、もし永遠の報いに思いをはせるなら、聖パウロの言葉にたやすく納得がゆくことでしょう。聖パウロによれば、「いまの時のいろいろな苦しみは、将来私たちに表わされようとしている栄光に比べればとるに足りない」のです。なんというのも、「いまの時のこのしばらくの軽い艱難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、永遠の栄光をもたらすからです」。
そしてこれは、神をたたえ、神に奉仕するすべてのキリスト者の身に実現することなのです.
聖イグナチオ・ロヨラ「コインブラのイエズス会士への書簡」