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8-5-3 廷臣たち

2024-06-13 04:43:23 | 世界史


『絶対主義の盛衰 世界の歴史9』社会思想社、1974年
5 ルイ十四世が造ったベルサイユ宮殿の盛衰
3 廷臣たち

 新装のベルサイユ宮殿には廷臣の用に供するための多くの部屋があり、ルイ十四世はこれらを貴族たちに適当に与えたわけであるが、それこそ彼らにとって、まず何よりの恩寵であった。
 それから廷臣たちは何かの役職にありつかなければならない。
 前にのべた王の一日のスケジュールをとってみても、それらに参加、列席できる資格は厳重に定められ、王もこれを巧みに分配して貴族たちをあやつった。
 太陽王排便のときにも、それに参列できることは廷臣の大きな特権の一つであったという。
 豪奢を愛する王は、万事にたいへんな浪費家であったが、廷臣もそうでなければならなかった。
 これは王の恩寵にあずかる一手段であるとともに、貴族たちの生活を苦ししくて、王権に頼らざるをえないようにする一つの政策でもあった。
 宮廷生活における出費は、当時の貴族が貧乏になった一因ともいわれる。
 そして廷臣たちは役職をねらって必死であった。
 ベルサイユ宮殿にきていたある外国人が書いている。
 「国王によって認められたいと思う廷臣たちの情熱は、信じがたいものがある。
 王が彼らのなかのだれかに一瞥(いちべつ)をあたえると、この男は運がまわってきたと信じ、誇らしげに吹聴(ふいちょう)するのだ。
 『王がわたしをごらんになった!』」
 機会を待ちながら、長い年月を空費する廷臣たちも少なくなかった。
 彼らの一人が新顔の廷臣に語ったという。
 「あなたのなすべきことは三つしかない。すなわちあらゆる人びとをほめること、どんな役でも空いたらすぐに願い出ること、そして出来るかぎり、控えの間にいることです。」
 廷臣たちにとって他人の失脚こそが望ましかったわけだから、陰謀、策動は日常茶飯(さはん)事であり、表面的には豪華で楽しげな宮廷生活も、じつは陰気で神経を緊張させ、刺激するものであったと思われる。
 ルイ十四世は人一倍、追従(ついしょう)や迎合を好んだ王であったので、この点を利用しようとする廷臣たちの努力も相当なものであった。
 妻がいつ、お産をするかと王にきかれたある貴族は、「陛下がお望みのときに」と答えたというが、この廷臣はまた王妃に、「いま何時か」とたずねられて、「王妃さまがお望みのままの時刻です」と答えたとあっては、いささか作り事めいているではないか。
 古典悲劇の作家として有名参ラシーヌはまた、王の修史官でもあったが、ある戦役に従軍しなかった。
 その理由を王にもとめられたとき、この文人の返答は巧妙なものであった。
 「従軍用の服を注文しましたところ、仕立て屋がまことにのろくて、それが出来あがるころには、陛下が攻撃された都市はすでにすみやかに落城いたしておりました。」
 ベルサイユの森をきり開いているころのことだが、視界をさえぎる一群の木々があった。
 王がこれに不満をいだいていることを知ったダンタン伯は一計を案じ、これらの木々を根元で切り、しかも一時倒れないように細工していた。
 つぎに王がこの場にさしかかったとき、木々はいっせいに倒れた。
 「私はこれまでこんなに愉快な光景に接したことがない」と、王はきわめて満足の態であったが、かたわらで見ていたブルゴーニュ公妃は女官たちにいったものだ。
 「もし王さまが私たちの首を望まれるときは、ダンタン伯は同じようにやってしまわれましょう!」
 女官といえば、貴婦人たちも王の気持ちにとりいるように努めた。
 ある日、寵姫フォンタンジュが王とともに外出したとき、みだれた髪をかきあげて持ちあわせたリボンでくくった。
 これはたいへん王の気にいった。
 すると宮廷の貴婦人たちはきそってこれと同じ髪型に変え、その後それはフォンダンジュ結びとして流行するにいたった。
 王は礼儀正しく、とくに婦人に対してそうであった。
 宮廷づきの洗濯女であっても、女性に向かっては自分から帽子に手をふれて礼をしたが、この礼法もつぎのように分かれていた。
 すなわち王は貴婦人に対しては帽子を完全に、男性の大貴族に対しては半分ほど取り、一般の貴族その他には帽子に手をふれる……というようなぐあいである。
 ルイ十四世時代はフランス絶対王制の最盛期といわれる。
 「朕は国家なり。」――王自身けっして口にしたことはなかったが、あまりにも有名なこの言葉が物語っているように、国務はすべて王を中心として展開した。
 王は王太子教育のため、『覚書きを口述筆記させたが、そのなかで、職務は他人まかせで、称号だけを持つような王にはけっしてなるまいと、述べている。
 彼はいわばそれを実行したわけである。
 王を補佐するのは大臣からなる最高国務会議、それから若干の専門別国務会議、ほかに人的には大法官、財務総監、陸軍・海軍・外務・宮内の国務卿などであり、中央政府の令を地方で実行するのは「王の目、耳、そして腕」といわれた地方監察官である。
 これら諸機構のもとに、フランス絶対主義の中央集権化が進められたが、それらが王の意志ひとつで左右されたことはいうまでもない。          



 なお大臣は一時にだいたい三人くらいで、職務の併任や重複は多かった。
 そして親政五十四年間に大臣の総数は十六人にすぎず、しかもそのうち貴族はきわめて少なく、彼らの側から「いやしい町人どもの治世」とよばれる一面が、ここにも現われていた。
 一方、ルイ十四世は絶対君主としての貫禄十分であった。
 からだは頑健、エネルギッシュで野心的であり、また幼いときから「王者の術(すべ)」として軍事を教えこまれた王は、野戦攻城といったことを大いに好んだ。一面、王はたいへん感じやすく、涙もろかった。
 「王の姿態は美しく、豊かな上背(うわぜい)で均整がとれた体躯(たいく)であり……
 容色は、威厳と気品とをたたえている」
 といわれるような王は、とくに馬上の英姿において颯爽(さっそう)たるものがあり、これを見る人びとは讃嘆したという。
 こういう王は自分が賞讃されることを喜び、追従や迎合をもとめ、前述したように、この点を利用するのが寵をうるための便法でもあった。
 また王はすべてに細かく気をくばったが、貴族たちの一身上の秘密をさぐるために、スパイを放ったり、手紙を開封することもためらわなかった。
 宮廷をはなれる者はその理由をただされ、出仕することが少ない者もその説明を要した。




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