この橋には霊魂の三つの状態を示す三つの階段があることについて。──この橋は高いけれども地に着いていることについて。──キリストの「わたしが天にあげられたら、すべてをわたしに引き寄せる」という言葉の意味について。
すると、永遠の神は、この霊魂の人々の救いに対する愛をますます燃え立たせ、はげますために、これに答えて言われた。
──あなたがわたしに願っているもの、わたしがあなたに示したいと望んでいるものを、あなたに見せる前に、この橋がどのようにできているかについて説明したい。すでに話したように、この橋は天と地とを結んでいる。それは、「わたし」が、黄土で造った人間と結んだ一致による。
わたしの「ひとり子」であるこの橋には三つの階段があることを知ってほしい。二つは至聖なる十字架の木の上で造られ、三つ目は、酢と胆汁とを飲まされて大きな苦悩を感じたとき、造られた。この三つの階段は、すでに説明したように、霊魂の三つの状態を認識させる。
第一の階段は足であって、愛情を意味する。そのわけは、足が体を支えているように、愛情は霊魂を支えているからである。足は、心の秘密があなたに示される脇腹に達することができるように、大きな階段を形づくっている。このように、霊魂は、愛情の足でのぼりながら、心の愛を味わいはじめ、わたしの「子」の開かれた心を、知性の目をもって見つめる。そして、そこで、無我で名状することのできない愛を見出す。
わたしが「無我で」と言うのは、自分自身の利益のために愛さないという意味である。わたしと同一であるわたしの「子」が、あなたがたから自分自身の利益を手にすることができるであろうか。それで、霊魂は、自分がこれほどまで愛されているのを見て、愛に満たされる。霊魂は、第二の階段を越えると、第三の階段、すなわち口に達する。そしてそこで、その過失が巻き起こした大きな戦いののち、平和を見出すのである。
第一の階段では、その足を地上の束縛から解放し、悪徳を脱ぎ棄てる。第二の階段では、愛と善徳とに満たされる。第三の階段では、平和を味わう。
要するに、橋には三つの階段がある。最後の階段に達するためには、第一と第二の階段を越えなければならない。この橋は、河の流れがとどかないように、高く築かれている。罪の毒は決してこれを汚したことがない (9) 。
このように高く築かれたこの橋ではあるが、それでいて地に達している。いつこのように高くあげられたか、あなたは知っているであろうか。至聖なる十字架の木の上にあげられたときである。そのとき、「神性」は、地上の谷間のようなあなたがたの人性から離れなかった。それゆえ、わたしはあなたに、かれは高くあげられたけれども地から離れなかった、と言ったのである。なぜなら、二つの本性はたがいに一致結合しているからである。この橋が高く築かれないうちは、だれもそれを渡ることができなかった。そのため、かれは、「わたしが地からあげられたとき、すべてをわたしに引き寄せるであろう」(10) と言ったのである。
わたしの「いつくしみ」は、他の方法ではあなたがたを引き寄せることができないのを見て、かれを送って、十字架の木の上にあげた。わたしは、これを鉄床となし、その上で人類の子らを鍛煉し、これを死から救い出し、そのなかに恩寵の生命を回復させた。このようにして、かれは、すべてをかれに引き寄せ、わたしがあなたがたに対して抱いている名状しがたい愛を示したのでしる。それというのも、人の心はいつも愛に引かれているからである。かれは、あなたがたのためにその生命を棄てること以上に、大きな愛の証しを示すことができたであろうか (11) 。それゆえ、人間は、この愛の引力に抵抗するほど盲目でないかぎり、これに引かれざるをえない。わたしの「子」が、高くあげられたときすべてを引き寄せると言ったのは、そのためである。そして、それは真理である。
これを理解するには、二つの方法がある。一つは、人間の心が、愛の情念に駆られて、霊魂のすべての能力、すなわち、記憶、知性、意志をもって、これを体験することである。この三つの能力が、わたしの名において協調し集合するならば、人間のほかのすべての働きは、外的なものも内的なものも、共感的にわたしの方に引かれ、愛の情念によって、わたしのなかで一致する。人間はこのようにして、十字架にかけられた愛に従い、高いところを目ざして登るのである。だから、わたしの「真理」が、「わたしが高くあげられるとき、すべてをわたしに引き寄せる」と言ったのは、もっともであった。なぜなら、心と霊魂の諸能力とをとらえたのち、そのすべての働きを、自分に引き寄せるからである。
もう一つの方法は、万物は人間が使用するために造られているのであるから、すべては、理性的な被造物の役に立ち、その需要に答えるようにできているけれども、理性を与えられた被造物は、これらの物のために造られたのではなく、その心をつくし、その愛情をつくして、わたしに仕えるために、造られていることを、理解することである。そうすれば、人間はわたしの「子」の方に引かれている以上、すべては「かれ」の方に引かれている、なぜなら、他のすべては人間のために造られているからである、ということを理解することができるのである。
要するに、橋は高く築かれていて、しかも階段がついている必要があった。もっとたやすく登ることができるためである。
聖カタリナに現れたイエズス様による啓示
(シエナの聖カタリナ、岳野慶作訳『対話』)
すると、永遠の神は、この霊魂の人々の救いに対する愛をますます燃え立たせ、はげますために、これに答えて言われた。
──あなたがわたしに願っているもの、わたしがあなたに示したいと望んでいるものを、あなたに見せる前に、この橋がどのようにできているかについて説明したい。すでに話したように、この橋は天と地とを結んでいる。それは、「わたし」が、黄土で造った人間と結んだ一致による。
わたしの「ひとり子」であるこの橋には三つの階段があることを知ってほしい。二つは至聖なる十字架の木の上で造られ、三つ目は、酢と胆汁とを飲まされて大きな苦悩を感じたとき、造られた。この三つの階段は、すでに説明したように、霊魂の三つの状態を認識させる。
第一の階段は足であって、愛情を意味する。そのわけは、足が体を支えているように、愛情は霊魂を支えているからである。足は、心の秘密があなたに示される脇腹に達することができるように、大きな階段を形づくっている。このように、霊魂は、愛情の足でのぼりながら、心の愛を味わいはじめ、わたしの「子」の開かれた心を、知性の目をもって見つめる。そして、そこで、無我で名状することのできない愛を見出す。
わたしが「無我で」と言うのは、自分自身の利益のために愛さないという意味である。わたしと同一であるわたしの「子」が、あなたがたから自分自身の利益を手にすることができるであろうか。それで、霊魂は、自分がこれほどまで愛されているのを見て、愛に満たされる。霊魂は、第二の階段を越えると、第三の階段、すなわち口に達する。そしてそこで、その過失が巻き起こした大きな戦いののち、平和を見出すのである。
第一の階段では、その足を地上の束縛から解放し、悪徳を脱ぎ棄てる。第二の階段では、愛と善徳とに満たされる。第三の階段では、平和を味わう。
要するに、橋には三つの階段がある。最後の階段に達するためには、第一と第二の階段を越えなければならない。この橋は、河の流れがとどかないように、高く築かれている。罪の毒は決してこれを汚したことがない (9) 。
このように高く築かれたこの橋ではあるが、それでいて地に達している。いつこのように高くあげられたか、あなたは知っているであろうか。至聖なる十字架の木の上にあげられたときである。そのとき、「神性」は、地上の谷間のようなあなたがたの人性から離れなかった。それゆえ、わたしはあなたに、かれは高くあげられたけれども地から離れなかった、と言ったのである。なぜなら、二つの本性はたがいに一致結合しているからである。この橋が高く築かれないうちは、だれもそれを渡ることができなかった。そのため、かれは、「わたしが地からあげられたとき、すべてをわたしに引き寄せるであろう」(10) と言ったのである。
わたしの「いつくしみ」は、他の方法ではあなたがたを引き寄せることができないのを見て、かれを送って、十字架の木の上にあげた。わたしは、これを鉄床となし、その上で人類の子らを鍛煉し、これを死から救い出し、そのなかに恩寵の生命を回復させた。このようにして、かれは、すべてをかれに引き寄せ、わたしがあなたがたに対して抱いている名状しがたい愛を示したのでしる。それというのも、人の心はいつも愛に引かれているからである。かれは、あなたがたのためにその生命を棄てること以上に、大きな愛の証しを示すことができたであろうか (11) 。それゆえ、人間は、この愛の引力に抵抗するほど盲目でないかぎり、これに引かれざるをえない。わたしの「子」が、高くあげられたときすべてを引き寄せると言ったのは、そのためである。そして、それは真理である。
これを理解するには、二つの方法がある。一つは、人間の心が、愛の情念に駆られて、霊魂のすべての能力、すなわち、記憶、知性、意志をもって、これを体験することである。この三つの能力が、わたしの名において協調し集合するならば、人間のほかのすべての働きは、外的なものも内的なものも、共感的にわたしの方に引かれ、愛の情念によって、わたしのなかで一致する。人間はこのようにして、十字架にかけられた愛に従い、高いところを目ざして登るのである。だから、わたしの「真理」が、「わたしが高くあげられるとき、すべてをわたしに引き寄せる」と言ったのは、もっともであった。なぜなら、心と霊魂の諸能力とをとらえたのち、そのすべての働きを、自分に引き寄せるからである。
もう一つの方法は、万物は人間が使用するために造られているのであるから、すべては、理性的な被造物の役に立ち、その需要に答えるようにできているけれども、理性を与えられた被造物は、これらの物のために造られたのではなく、その心をつくし、その愛情をつくして、わたしに仕えるために、造られていることを、理解することである。そうすれば、人間はわたしの「子」の方に引かれている以上、すべては「かれ」の方に引かれている、なぜなら、他のすべては人間のために造られているからである、ということを理解することができるのである。
要するに、橋は高く築かれていて、しかも階段がついている必要があった。もっとたやすく登ることができるためである。
聖カタリナに現れたイエズス様による啓示
(シエナの聖カタリナ、岳野慶作訳『対話』)