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9-2-3 「ドイツ帝国の死亡証書」

2024-04-12 05:55:30 | 世界史


『絶対主義の盛衰 世界の歴史9』社会思想社、1974年
2 ブルボン王朝余話、フランスの大政治家リシュリュー
3 「ドイツ帝国の死亡証書」

 グスタフ王は当代随一の名将といわれる。
 古代ギリシア・ローマの戦術につうじた彼は、まったく独創的な戦術をあみだした。
 すばやい移動ができるように騎兵隊を縮少し、歩兵隊の間隔を大きくし、騎兵のあいだに歩兵を配置した。
 また、ふつう一線に配置される軍隊を二線にし、交互に攻撃ないし撤退できるようにした。
 銃や大砲も新式であった。軍規はきびしく、掠奪は処罰され、戒律がゆきわたっていた。
 そしてグスタフ二世は一六三〇年六月、ドイツプロテスタント救援を口実に、領土拡大の野心をもって軍を動かした。
 リシュリューはいまやデンマーク王にかえて、このスウェーデン王支持にまわり軍資金の提供を約する。
 三一年夏、不敗の将軍ティリーの皇帝軍を破ったスウェーデン軍は、北ドイツ一帯を制圧し三二年には南ドイツにはいってミュンヘンを陥落させ、オーストリアをめざした(ティリーは三二年四月重傷を負って死去)。
 これをみたバレンシュタインは、皇帝たちに対する恨みからか、ドイツ統一の野心からか、グスタフとひそかに結託しようとした。
 グスタフは思いまどったあげく、拒否したが、この人物が信用できなかったからであろう。
 自尊心を傷つけられたバレンシュタインは、逆にスウェーデン王と対決することとなった。
 皇帝は辞を低くして、バレンシュタインの再登場を懇請したのである。
 彼は全軍に対する無条件の全権委任を条件として、ようやくこれに応じた。
 こうしてバレンシュタインの軍は、一六三二年十一月十六日、ライプチヒ近郊リュッツェンで、スウェーデン軍に遭遇する。
 皇帝軍は「イエズス・マリア」と、スウェーデン兵は「神明の加護あれ」と叫びつつ、白兵戦を展開した。
 夜までつづいた激戦は、スウェーデン軍の優勢に終わり、皇帝軍は退いたが、戦争そのものを終わらせるようなものではなかった`。
 しかしスウェーデンは大きな犠牲をはらった。
 陣頭にあったグスタフ二世は、乱戦にまきこまれて戦死した。
 もちまえの向こう見ずと近視がわざわいしたのだ。
 王の遺体は長いあいだ探されたすえ、おりかさなった死体の下からひきだされたという。
 「北方の獅子王」とよばれ、バルト海を湖水とするような帝国をつくろうと夢みた、王者の最期であった(あとをついだのは、のちにデカルトやグロティウスを宮廷に招いたクリスティナ女王である)。
 カトリックのスペインは、オランダ制圧とフランス挟撃という宿願達成のチャンスとばかり勇みたった。
 皇帝も全面的反攻を期待した。しかしバレンシュタインは動かない。
 それどころかひそかにプロテスタント諸侯やスウェーデン、フランスなどと和平交渉を行なっていた。
 リシュリューは皇帝を裏切る代償として、バレンシュタインをベーメン王として認めることを諒解していたが、はたしてどの程度、この人物に期待していたかは不明である。
 そのバレンシュタインは当時健康をそこない、頼りとする軍隊も背を向けはじめていた。
 皇帝も彼をみかぎった。
 しかもこのとき彼は敵と交渉をつづけたり、星占いをしたりして、決断力を欠いていた。
 そして一六三四年二月、部下の陰謀は、この将軍の命をうばった。
 陰謀家たちは、皇帝から十分に報いられた点からみても、暗殺の背後にはウィーンの宮廷の動きもあったとみられよう。
 バレンシュタインについては、新旧両教徒の対立を終わらせ、ドイツに統一をもたらそうとした大人物という評価と、復讐心に富んだたんなる野心家という見解がある。
 グスタフ二世の戦死後、一六三五年、皇帝とプロテスタント諸侯とのあいだに妥協が成立した。
 しかしこの年、ついにリシュリューのフランスは公然と戦争に介入してきた。
 ここにドイツ国内の戦争から、両ハプスブルク家(オーストリアとスペイン)とブルボン家(フランス)との国際的戦争の性格がつよくなった。
 スウェーデンもなお軍をとどめており、したがって四ヵ国の軍が、スウェーデン・フランス軍優勢とはいえ、決定的勝敗がないままに、さらに十年以上も戦いつづけたのである。
 戦場となったドイツは戦乱に荒廃し、群盗や掠奪兵がいたるところに横行した。
 グリムメルスハウゼン(一六二一頃~七六)の『阿呆物語』(一六六九)は、体験をこめて、苦悩する民衆の姿をいきいきと描いている。
 戦争の悲惨といえば、「国際法の父」といわれるオランダ人グロティウス(一五八三~一六四五)が、不朽の書『戦争と平和の法』(一六二五)によって、戦争の惨禍をなくして平和を実現するために国家が守るべき法を明らかにしようとしたことも、三十年戦争と無関係ではあるまい。
 一六四一年、和平交渉のいとぐちが開けたが、その会議が北ドイツのウェストファリア地方で開かれたのは、四四年春からであった(会議の場所は、約五十キロ離れた、ミュンスターとスナブリュックの両都市)。
 皇帝および数多くの諸侯の使節、フランス、スウェーデン、スペインなどの交戦国や他のキリスト教国の代表たちが集まった。
 それは西洋史上はじめての大規模な国際会議であった。
 一六四八年十月成立したウェストファリア条約では、フランスがもっとも有利であり、エルザスの大部分、ベルダン、メッス、ツールをえて、東部国境を拡大した。
 スウェーデンも北ドイツのポンメルンなどに領土をえた。
 一方、神聖ローマ皇帝の力はますます弱まり、三百数十の領邦国家によってドイツの分裂は決定的となり、この条約は「ドイツ帝国の死亡証書」とよばれる。
 ドイツの国土は荒廃し、人口は激減、経済的発展もおくれることとなった。
 しかし領邦国家では、それぞれ常備軍や官僚機構が整えられ、小規模な絶対君主制が発達した。、
 オランダおよびスイス(実質的には十四世紀に独立達成)の独立が国際的に承認されたのも、この会議であるが、いずれもハブスブルク家の所領であったから、これはこの名家の衰退を示すものであった。
 こうしてフランスと両ハブスブルク家の多年の対決は、前者の勝利に終わったといえよう(ただしフランスとスペインの戦争は、一六五九年までつづいた)。
 なお、カルバン派をもふくめて、プロテスタントがカトリックと同じ権利をもつことも、この条約で認められた。
 また戦争に関係したプロシアも領土をえて、強国となるもといをすえ、やがてオーストリアをおびやかす存在となった。



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