『古代ヨーロッパ 世界の歴史2』社会思想社、1974年
12 カエサルとクレオパトラ
3 骰子(さい)は投げられた
しかしカエサルがガリアで征戦に従っているあいたに、三頭政治のバランスは崩れかけた。
紀元前五四年、カエサルの娘で、ポンペイウスの妻ユリアが死んだのは、その不吉な前兆となった。
政略結婚ではあったが、夫を深く愛しまた愛されていたユリアが、ポンペイウスとカエサルをつなぐ、大切なきずなとなっていたからである。
翌五三年にはクラッススの死が知らされた。
彼はローマの東境を脅かしていたパルティアを撃退するために、任地のシリアからメソポタミア方面に進軍したが、カルライの戦いで敗死し、軍旗も奪われたのであった。
こうして三頭政治は名実ともに崩壊してしまった。
首都ローマでは、ポンペイウスとカエサルの対立が表沙汰になり、紀元前五二年は、執政官も法務官も、選出されないありさまで始まった。
三月末に元老院は、ガリアで実力を貯えたカエサルを孤立させるために、ポンペイウスに働きかけ、両者の妥協が成立し、ポンペイウスは「同僚のない執政官(コンスル)」という異例の職についた。
カエサルはこのときガリアの大反乱のため、これに反対することができなかった。
こうしてポンペイウスはほとんど独裁的な権限を手にしたので、政治体制を変革し、またカエサルを打倒する絶好のチャンスに恵まれたが、彼はその機会を有効に利用しなかった。
紀元前五一年以後、ローマの政界では、カエサルの処遇をめぐって、激論が戦わされた。
カエサルはローマに帰還して、盛大な凱旋式を行ない、ふたたび執政官に立候補して、当選することを望んだ。
しかし凱旋式を行なうには軍隊の指揮権をもっていなければならず、執政官に立候補するには官職を辞し、一私人とならなければならないからこの二つは両立しなかった。
またローマでは官職に在任中は告発されないが、私人になれば政敵に告発される危険があった。
そこでカエサルはローマに帰還せず、軍隊を保持したままで、翌年の執政官に立候補できるように要求した。
政敵はもちろん、これまでの規定によってこれを認めようとせず、これをめぐって複雑で、激しいやりとりが行なわれたが、けっきょく、最後にものをいうのは軍事力であることは、カエサルもポンペイウスも知っていた。
キケロは両派の和解をとりなしたが、徒労に終わった。
ついに紀元前四九年一月の元老院会議で、「カエサルは定められた日までに、軍の指揮権を放棄しなければ、国家の公敵とみなす」というポンペイウスの岳父(がくふ)スキピオの提案が、圧倒的多数で可決された。
カエサル派の護民官のアントニウスとカシウスは拒否権を発動したが、元老院は最終議決にもとづく「国家防衛の全権」を、執政官などの高級政務官や護民官に与えて、二人の護民官が発動した拒否権を封じた。
そこでアントニウスとカシウスは元老院をとび出し、奴隷に扮装してカエサルのいるラヴェンナに逃れた。
カエサル派の元老院議員たちもこれにつづいた。
カエサルは今や議論の時が終わり、行動の時が来たことを実感した。
ところがカエサルはラヴェンナには一軍団の兵力しかもち合わせていなかった。
あとの軍勢は、まだアルプスの向こう側においていたので、急場にまに合わなかった。
しかし今大切なのは兵力ではなくて、機先を制するチャンスを掴むことにあることを、カエサルはみてとった。
彼は手兵を率いて、ルビコン川のほとりに着いた。この小川はカエサルが軍指揮権をもつガリアとイタリア本国との境界になっており、軍隊を率いてこの小川を越えると、国法にそむくことになる。
カエサルはしばらく向こう岸をにらんでためらったが、ついに決心して進軍ラッパを吹かせた。
「骰子(さい)は投げられた」とギリシアの喜劇作家メナンドロスのせりふを叫びながら、彼がルビコンの流れに馬をのり入れると、全軍も彼に従って、いっせいに川を渡った。
一度決断を下すと、彼の行動は電光のようにはやかった。
たかをくくっていた元老院議員たちは、カエサルのローマ進軍の知らせをきくと、すっかり慌てふためいた。
ポンペイウスはふだん、自分のイタリアにおける勢力を自慢して、「わたしがイタリア大地をとんと一踏みすれば、たちどころに大軍が現われる」といっていたが、カエサルの奇襲によって、いわば一踏みする余裕もなかったのである。
まもなくポンペイウスは首都どころか、イタリアをもあっさり放棄して、バルカン半島に渡った。
ポンペイウスはスラの例にならって、東方に植えつけている自分の勢力を動かして、東から攻め上り、ローマを奪い返す自信があった。
またイスパニアにいる部将も、背後からカエサルを攻めることができた。
それに合法性も自分のほうにあるのが、何よりの強味であった。
カエサルは中立、無党派の人々を味方としてとり扱った。そればかりか、イタリアで元老院が集めて抵抗した軍隊を破ったのち、捕虜になった元老院議員、騎士身分の人々をもすべて赦(ゆる)し、敵の兵士をも自分の軍団に編入した。
12 カエサルとクレオパトラ
3 骰子(さい)は投げられた
しかしカエサルがガリアで征戦に従っているあいたに、三頭政治のバランスは崩れかけた。
紀元前五四年、カエサルの娘で、ポンペイウスの妻ユリアが死んだのは、その不吉な前兆となった。
政略結婚ではあったが、夫を深く愛しまた愛されていたユリアが、ポンペイウスとカエサルをつなぐ、大切なきずなとなっていたからである。
翌五三年にはクラッススの死が知らされた。
彼はローマの東境を脅かしていたパルティアを撃退するために、任地のシリアからメソポタミア方面に進軍したが、カルライの戦いで敗死し、軍旗も奪われたのであった。
こうして三頭政治は名実ともに崩壊してしまった。
首都ローマでは、ポンペイウスとカエサルの対立が表沙汰になり、紀元前五二年は、執政官も法務官も、選出されないありさまで始まった。
三月末に元老院は、ガリアで実力を貯えたカエサルを孤立させるために、ポンペイウスに働きかけ、両者の妥協が成立し、ポンペイウスは「同僚のない執政官(コンスル)」という異例の職についた。
カエサルはこのときガリアの大反乱のため、これに反対することができなかった。
こうしてポンペイウスはほとんど独裁的な権限を手にしたので、政治体制を変革し、またカエサルを打倒する絶好のチャンスに恵まれたが、彼はその機会を有効に利用しなかった。
紀元前五一年以後、ローマの政界では、カエサルの処遇をめぐって、激論が戦わされた。
カエサルはローマに帰還して、盛大な凱旋式を行ない、ふたたび執政官に立候補して、当選することを望んだ。
しかし凱旋式を行なうには軍隊の指揮権をもっていなければならず、執政官に立候補するには官職を辞し、一私人とならなければならないからこの二つは両立しなかった。
またローマでは官職に在任中は告発されないが、私人になれば政敵に告発される危険があった。
そこでカエサルはローマに帰還せず、軍隊を保持したままで、翌年の執政官に立候補できるように要求した。
政敵はもちろん、これまでの規定によってこれを認めようとせず、これをめぐって複雑で、激しいやりとりが行なわれたが、けっきょく、最後にものをいうのは軍事力であることは、カエサルもポンペイウスも知っていた。
キケロは両派の和解をとりなしたが、徒労に終わった。
ついに紀元前四九年一月の元老院会議で、「カエサルは定められた日までに、軍の指揮権を放棄しなければ、国家の公敵とみなす」というポンペイウスの岳父(がくふ)スキピオの提案が、圧倒的多数で可決された。
カエサル派の護民官のアントニウスとカシウスは拒否権を発動したが、元老院は最終議決にもとづく「国家防衛の全権」を、執政官などの高級政務官や護民官に与えて、二人の護民官が発動した拒否権を封じた。
そこでアントニウスとカシウスは元老院をとび出し、奴隷に扮装してカエサルのいるラヴェンナに逃れた。
カエサル派の元老院議員たちもこれにつづいた。
カエサルは今や議論の時が終わり、行動の時が来たことを実感した。
ところがカエサルはラヴェンナには一軍団の兵力しかもち合わせていなかった。
あとの軍勢は、まだアルプスの向こう側においていたので、急場にまに合わなかった。
しかし今大切なのは兵力ではなくて、機先を制するチャンスを掴むことにあることを、カエサルはみてとった。
彼は手兵を率いて、ルビコン川のほとりに着いた。この小川はカエサルが軍指揮権をもつガリアとイタリア本国との境界になっており、軍隊を率いてこの小川を越えると、国法にそむくことになる。
カエサルはしばらく向こう岸をにらんでためらったが、ついに決心して進軍ラッパを吹かせた。
「骰子(さい)は投げられた」とギリシアの喜劇作家メナンドロスのせりふを叫びながら、彼がルビコンの流れに馬をのり入れると、全軍も彼に従って、いっせいに川を渡った。
一度決断を下すと、彼の行動は電光のようにはやかった。
たかをくくっていた元老院議員たちは、カエサルのローマ進軍の知らせをきくと、すっかり慌てふためいた。
ポンペイウスはふだん、自分のイタリアにおける勢力を自慢して、「わたしがイタリア大地をとんと一踏みすれば、たちどころに大軍が現われる」といっていたが、カエサルの奇襲によって、いわば一踏みする余裕もなかったのである。
まもなくポンペイウスは首都どころか、イタリアをもあっさり放棄して、バルカン半島に渡った。
ポンペイウスはスラの例にならって、東方に植えつけている自分の勢力を動かして、東から攻め上り、ローマを奪い返す自信があった。
またイスパニアにいる部将も、背後からカエサルを攻めることができた。
それに合法性も自分のほうにあるのが、何よりの強味であった。
カエサルは中立、無党派の人々を味方としてとり扱った。そればかりか、イタリアで元老院が集めて抵抗した軍隊を破ったのち、捕虜になった元老院議員、騎士身分の人々をもすべて赦(ゆる)し、敵の兵士をも自分の軍団に編入した。