『アジア専制帝国 世界の歴史8』社会思想社、1974年
11 台湾の鄭氏政権
4 鄭氏政権の最後
すでに清朝は遷界(せんかい)令を発していた(一六六一)。
これは山東から広東まで、つまり中国大陸の海岸のほとんど全域にわたって、住民を海岸から十数キロの奥地まで、強制的に移住させたものである。
いうまでもなく、鄭氏の政権の弱体化をはかったものであった。
そもそも鄭氏の海上貿易は、日本や南海の諸国とばかり、おこなわれていたわけではない。
日本にせよ、南海の諸国にせよ、もっともほしかっているものは、やはり中国の産物、とくに生糸の類である。
そこで鄭氏の船は、大陸の諸港に寄って、取引をなし、必要とするものを積みこんだ。
つまり清朝の領内でも交易をいとなんでいたわけである。
もちろん清朝もだまっていたわけではない。
海禁をきびしくして、民間の船が海上に出ることを耿締まった。
しかし、なかなか効果があがらない。ついに最後の手段として、遷界令を発し、海岸の一帯を無人の地にしてしまったのであった。
鄭氏をアモイ、のちには台湾に孤立させてしまおうとしたのである。
それでも鄭氏はがんばった。
やがて台湾に拠ってから十二年、清朝としては最大の反乱たる三藩の乱がおこった(一六七三)。
台湾の対岸たる福建では、靖南(せいなん)王の耿精忠(こうせいちゅう)が立つ。
翌年、精忠は鄭氏に援車をもとめた。その代償として、泉州などの要港を割譲しようという。
台湾の鄭経(ていきょう)は大いによろこんだ。
大陸における足がかりをえようと、兵を発し、耿精忠をたすけた。
しかるに精忠は、割譲の約束を実行しなかった。経(きょう)は怒った。
みすがら軍をひきい、泉州などを占領したほか、南下して各地を攻略した。
かくて精忠は、鄭氏の軍と清軍と、腹背(ふくはい)から攻めたてられるにいたった。
ついに一六七六年には、清朝に降伏する。
いまや鄭氏は、ふたたび清軍と戦う。
せっかく占領した各地も、清軍によって、つぎつぎに奪いかえされた。
鄭経はしりぞいて、アモイと、その周辺をまもるのみとなった。
しかも鄭氏の軍は、一六八〇年まで、この一角をまもりとおしたのである。
三藩の本拠たる雲南が平定されぬ限り、清朝としても、鄭氏に対してのみ兵力をそそぐことはできなかった。
さてアモイを攻略されると、鄭経は台湾へもどる。
これを機会に、清朝は台湾に使者をおくって、その降伏をうながした。
勧降の文面は、きわめて鄭重であった。
「台湾は、もともと中国の領地ではない。鄭氏の父子が、みずから切りひらいたものである。
かつ明朝のためにつくすという精神は、呉三桂らの行動とまったく違っている。
いま、三藩の反乱も平定されて、中外は一家となった。このときにあたり、さらに兵を用いようとは思わない。
台湾が、その境域を保つのみにて兵をおこさず、内地を侵さないならば、征伐することはやめよう。
また、かならずしも衣冠を改める(清朝の服装に従う)には及ばない。
ただ、臣と称して入貢するだけでよい。それがいやならば、臣と称さなくとも、入貢しなくともよい。
とにかく、反抗の態度を捨て、まったく化外の一国として、ながく人民を安んずることを望む。」
鄭氏にとっては、この上ない条件にちがいなかった。よって鄭経も承認する。
しかし、大陸に貿易場をもとめたため、せっかくの和議もやぶれてしまった。
その翌年(一六八一)、鄭経は死去し、子の克挾(こくそう)がついだ。このとき相続のあらそいがおこる。
さしもの鄭氏も、内側からぐらついた。おなじ年、清軍は雲南を攻略し、三藩の乱もまったく平定された。
大陸には、もはや清朝に敵するものはなく、ただ台湾の鄭氏があるばかりとなった。
清朝は、ちゃくちゃくと進攻の準備をととのえた。
こうして康煕二十二年、すなわち一六八三年、清軍は二万の兵をもって、まず膨湖島を攻めた。
膨湖島をうしなって、台湾の政権もついに屈した。鄭克挾は清軍に降伏を申しいれた。
台湾が名実ともに、中国の主権のもとに組みいれられたのは、この時がはじめである。
清朝は、いまの台南に「台湾府」をおき、統治の中心とした。
全島が「台湾」と公称されるようになったのも、これより後のことである。
また清朝による統治がおわるまで、全島の中心は台湾府たる台南であった。
台北が中心となったのは、日本が領有(一八九五)してから後のことである。