『文芸復興の時代 世界の歴史7』社会思想社、1974年
7 マルティン・ルターの場合
5 神の前での平等
ルターは「大農民戦争」のさなか、一五二五年五月、四十二歳で結婚した。妻は尼僧で二十六歳のカタリナ・フォン・ポーラといった。ルターは『貴族に与うる書』のなかで、つぎのように書いている。
「聖書によれば僧侶はりっぱな人物で学問があり、一人の女の夫であるべきなのだが、キリスト教がローマ時代、権力者に圧迫され、そのため勇気が必要だったために、結婚しないという決心をする僧侶がたくさん出た。ところが教皇は、このすぐれた人びとにとって自発的な意志であったものを、一つの規則として僧侶すべてに強制した。
それは教会の財産を、ローマ教会に全部結びつけることに役立った」と書いた。
僧侶のなかには「めかけ」をもつ者もいたが、恋愛をし子供ができて苦しんでいるものも多かった。
僧侶に正式の結婚が許されないのは、「神の前での平等」を教えるキリスト教の精神に反するというのが、ルターの考えであった。
尼僧はまだとても若い時期に、「一生結婚しません」という誓いを立てさせられていたので、ルターはその破戒に奔走した。
ポーラはその一人であったが、優れた主婦として、ルターに六人の子供と家庭の喜びをあたえた。
結婚によってルターは、家族や教育についての考えかたをはっきりもつようになった。
「神の前での人間の平等」は、政治的・社会的なとらえかたから、しだいに個人的・家庭的なとらえかたで考えられるようになる。
それは宗教が政治から家庭に引きこもる、大げさにいえば「政教分離」の方向である。
それは同時に野外で大かがり火を焚く「社会的」なクリスマスから、ローソクで祝う「家庭的」なクリスマスへの方向である。
ルターは音楽が好きで、また上手だった。
ギターの前身でリュートという楽器がある。ルターはリュートを弾き、家族を集めて合唱を楽しんだ。
彼は讃美歌を作曲したが、そのいくつかは現在のプロテスタント系讃美歌集にはいっている。
「神はわがやぐら」は、クリスチャンでなくても知っている人が多いだろう。
カトリック教会のラテン語の聖歌(たとえばグレゴリウス聖歌)は、それなりにりっぱな美しいものであるが、その単純清澄な声は天使の合唱をあらわす特別の目的をもち、世俗の音楽と区別するために和音やリズムがきつく制限されていた。
ルターは讃美歌に民謡など世俗音楽の要素をとり入れ、ドイツ語を用いて、音楽を神の与えてくれた人間の喜びとして奨励した。
「ドイツ音楽」はルターからはじまるとさえいわれる。
「学校の教師は歌えなくてはならぬ。」
ルターのこの言葉は、村の聖歌隊(少年合唱団)のためにラテン語の歌だけを教え、鞭を錣っていた従来の教師たちへの批判であり、音楽を人間のものにしようという呼びかけであった。
バルトブルク城にかくれていたとき、ルターは聖書をドイツ語に訳した。
ルターによれば、神の言葉である聖書こそ、個人の信仰の根拠である。
それまでもドイツ語訳聖書の試みはあったが、「マルティン・ルター博士の聖書」はドイツ全体に普及し、方言の多かったドイツ語を、一つにまとめるのに絶大な寄与をした。
ルターはドイツの学校制度の恩人であるともいわれる。
ルター派の牧師は、だいたいにおいてカトリックの僧侶のかわりに教師の役目をはたした。
科学や経済について、きわめて保守的な考えかたしかもっていなかったルターは、教育内容の革新にはあまり貢献していない。
科学についての無理解は、カトリックにも劣らなかった。経済に関しては
「絹やビロードや貴金属や香料を輸入するのはぜいたくだ。一般に貿易によって貴族や富豪は貧乏になっている。」
「銀行を閉鎖せよ。一年に百グルデンのお金から、二千グルデンのお金をつくることがなぜできるのか」
と、彼は『貴族に与うる書』のなかで述べている。
ルターは貴族を尊敬し、商人を憎んでいた。
この「銀行」は、最大の金融業者フッガー家をさしている。
フッガーの成功は鉱山の経営権を、ドイツの領主たちから安く買い取ったことにはじまる。
フッガーの鉱山業支配は、農民の子てあったハンス・ルター(ルターの父)に銅の製錬の仕事を与えた。
ルターは大学で法律を勉強させてもらったのに、一五〇五年、突然修道院にはいって僧侶になってしまい、働き者の父ハンスを嘆かせていた。
父の僧侶嫌い(なまけ者と呼んでいた)を知りぬいていた息子の素朴な苦悩は、ルターの「経済」についての考えかたの形成におそらく関係している。
ルターの単純な「額に汗して働く」勤労主義は、当時芽ばえつつあった「資本主義的」な経済の動きをとらえるのにじゃまになった。
ルター主義が、別に述べるカルバン主義にくらべ、普及の程度で大きく劣っている理由はここにあるといってよい。
ルターは一五四六年に死んだ。
ライプチヒ論争のときやせていたが、次第にふとった。
このことにむやみとこだわってルターの晩年を堕落のようにいう立場がある。
肥満はとくに批評するようなことではないのだが、ルターの場合にかぎってそんなことがいわれる理由は、つぎに述べるような不幸なめぐり合わせからなのである。
7 マルティン・ルターの場合
5 神の前での平等
ルターは「大農民戦争」のさなか、一五二五年五月、四十二歳で結婚した。妻は尼僧で二十六歳のカタリナ・フォン・ポーラといった。ルターは『貴族に与うる書』のなかで、つぎのように書いている。
「聖書によれば僧侶はりっぱな人物で学問があり、一人の女の夫であるべきなのだが、キリスト教がローマ時代、権力者に圧迫され、そのため勇気が必要だったために、結婚しないという決心をする僧侶がたくさん出た。ところが教皇は、このすぐれた人びとにとって自発的な意志であったものを、一つの規則として僧侶すべてに強制した。
それは教会の財産を、ローマ教会に全部結びつけることに役立った」と書いた。
僧侶のなかには「めかけ」をもつ者もいたが、恋愛をし子供ができて苦しんでいるものも多かった。
僧侶に正式の結婚が許されないのは、「神の前での平等」を教えるキリスト教の精神に反するというのが、ルターの考えであった。
尼僧はまだとても若い時期に、「一生結婚しません」という誓いを立てさせられていたので、ルターはその破戒に奔走した。
ポーラはその一人であったが、優れた主婦として、ルターに六人の子供と家庭の喜びをあたえた。
結婚によってルターは、家族や教育についての考えかたをはっきりもつようになった。
「神の前での人間の平等」は、政治的・社会的なとらえかたから、しだいに個人的・家庭的なとらえかたで考えられるようになる。
それは宗教が政治から家庭に引きこもる、大げさにいえば「政教分離」の方向である。
それは同時に野外で大かがり火を焚く「社会的」なクリスマスから、ローソクで祝う「家庭的」なクリスマスへの方向である。
ルターは音楽が好きで、また上手だった。
ギターの前身でリュートという楽器がある。ルターはリュートを弾き、家族を集めて合唱を楽しんだ。
彼は讃美歌を作曲したが、そのいくつかは現在のプロテスタント系讃美歌集にはいっている。
「神はわがやぐら」は、クリスチャンでなくても知っている人が多いだろう。
カトリック教会のラテン語の聖歌(たとえばグレゴリウス聖歌)は、それなりにりっぱな美しいものであるが、その単純清澄な声は天使の合唱をあらわす特別の目的をもち、世俗の音楽と区別するために和音やリズムがきつく制限されていた。
ルターは讃美歌に民謡など世俗音楽の要素をとり入れ、ドイツ語を用いて、音楽を神の与えてくれた人間の喜びとして奨励した。
「ドイツ音楽」はルターからはじまるとさえいわれる。
「学校の教師は歌えなくてはならぬ。」
ルターのこの言葉は、村の聖歌隊(少年合唱団)のためにラテン語の歌だけを教え、鞭を錣っていた従来の教師たちへの批判であり、音楽を人間のものにしようという呼びかけであった。
バルトブルク城にかくれていたとき、ルターは聖書をドイツ語に訳した。
ルターによれば、神の言葉である聖書こそ、個人の信仰の根拠である。
それまでもドイツ語訳聖書の試みはあったが、「マルティン・ルター博士の聖書」はドイツ全体に普及し、方言の多かったドイツ語を、一つにまとめるのに絶大な寄与をした。
ルターはドイツの学校制度の恩人であるともいわれる。
ルター派の牧師は、だいたいにおいてカトリックの僧侶のかわりに教師の役目をはたした。
科学や経済について、きわめて保守的な考えかたしかもっていなかったルターは、教育内容の革新にはあまり貢献していない。
科学についての無理解は、カトリックにも劣らなかった。経済に関しては
「絹やビロードや貴金属や香料を輸入するのはぜいたくだ。一般に貿易によって貴族や富豪は貧乏になっている。」
「銀行を閉鎖せよ。一年に百グルデンのお金から、二千グルデンのお金をつくることがなぜできるのか」
と、彼は『貴族に与うる書』のなかで述べている。
ルターは貴族を尊敬し、商人を憎んでいた。
この「銀行」は、最大の金融業者フッガー家をさしている。
フッガーの成功は鉱山の経営権を、ドイツの領主たちから安く買い取ったことにはじまる。
フッガーの鉱山業支配は、農民の子てあったハンス・ルター(ルターの父)に銅の製錬の仕事を与えた。
ルターは大学で法律を勉強させてもらったのに、一五〇五年、突然修道院にはいって僧侶になってしまい、働き者の父ハンスを嘆かせていた。
父の僧侶嫌い(なまけ者と呼んでいた)を知りぬいていた息子の素朴な苦悩は、ルターの「経済」についての考えかたの形成におそらく関係している。
ルターの単純な「額に汗して働く」勤労主義は、当時芽ばえつつあった「資本主義的」な経済の動きをとらえるのにじゃまになった。
ルター主義が、別に述べるカルバン主義にくらべ、普及の程度で大きく劣っている理由はここにあるといってよい。
ルターは一五四六年に死んだ。
ライプチヒ論争のときやせていたが、次第にふとった。
このことにむやみとこだわってルターの晩年を堕落のようにいう立場がある。
肥満はとくに批評するようなことではないのだが、ルターの場合にかぎってそんなことがいわれる理由は、つぎに述べるような不幸なめぐり合わせからなのである。