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第13章:15世紀の聖会

2018-07-22 00:38:21 | 教会史
「第13章:15世紀の聖会」『聖会史のはなし』浦川和三郎司教

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15世紀はどのような時代でしたか。

フランスはその使命を裏切り、為にイギリスとの間に百年戦争が巻き起こり、国家は存亡の危機に陥りましたが、ようやく、ジャンヌ・ダルクにより救われました。他の国々、特にイタリアには、文芸復興(ルネサンス)の花が咲き、やがてはプロテスタントの先駆者も顕われて、宗教界も多事になってまいりました。

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ジャンヌ・ダルクの使命をお話ください

百年戦争とは、1337年から1453年まで、フランスとイギリスとの間にくりかえされた戦争です。フランスは連戦連敗、国家は今にも滅亡せんばかりとなりました時、天主は聖女ジャンヌ・ダルクを起こして、困難を救わせなさいました。聖女は17歳の田舎娘でした。
「往って国家の急を救え」という天の御声を幾度も幾度も聞き、終に起って国王シャール7世に拝謁して、自分に授けられた天の使命を信じさせました。
そして、一隊の兵を授けられて、11ケ月前からイギリス軍に包囲されていたオルレアン城をわずか3日で救い、それからレンヌにおいて国王シャール7世に戴冠式を挙げさせました。

しかし、ジャンヌ・ダルクは、コンピエヌ城外でイギリスの興党たるブルゴーニュ軍と戦ってその虜となり、イギリスに売り渡されました。
イギリス人は、宗教裁判の判事等を買収して、ジャンヌ・ダルクに、魔法使いと異端者の罪をきせ、1431年5月3日、ルーアン市において火刑に処しました。

しかし、聖会は久しからずしてこの判決を破毀し、1920年に至って、ジャンヌ・ダルクを聖人の列に加えました。
ジャンヌ・ダルクは、フランスをイギリス人の手より救うとともに、また、イギリスが間もなく陥ったプロテスタント派の禍いより、フランス国民を救った訳であります。

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他の国々もカトリック教会によってどのような恩恵をこうむりましたか。

他の国々も、種々の恩恵をこうむりました。
まず、宣教師たちは、東洋の発明品を西洋に携え帰るとか、アジアの地理、歴史、風俗、習慣などを明らかにするとかして、大いに人々の見聞を広くしました。

教皇がイタリアに帰りましてから、教皇、司教たちの奨励によって、昔のギリシア、ローマの文学、美術の研究が盛んになり、「レオ10世の世紀」と呼ばれる文芸復興期を現出せしめるに至りました。
「神曲」の著者ダンテ、画家フラ・アンゼリコなども文芸復興のさきがけをした人たちで、後には、ミケランジェロ、ラファエロ、レオナルド・ダ・ヴィンチ など、著名な画家や、彫刻家がぞくぞく輩出しました。ローマの聖ピエトロ大聖堂もこの時代に建てられたのであります。

スペインでは、クリストフス・コロンブスが宣教師たちの前例に動かされ、フランスの枢機卿、ピエルダイイの著書に導かれてアメリカを発見しました。

コロンブスは、新世界の一島に上陸するや、真っ先に十字架をたて、その島をサン サルバドル(聖救世主)と名付け、その地をキリストに献げ、教会の指導に委ねました。

ドイツでは、グーテンベルクによって活版印刷術が発明されました。
そして、その新発明を礼讃し、支持したものは、司教、司祭、修道士であったのです。

しかし、活版印刷術は、また多大の危害をも来しました。「書籍や新聞の記事は、時として泥棒や殺人よりも悪いものだ」とフランスの哲学者ヒユイエは言っています。一利一害は免れ難いものです。よって、聖会は禁書目録を作って、取り締まりを厳重にしました。

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プロテスタント派のさきがけをしたものは誰々でしたか

アヴィニヨンの遷居につづいて大離教さわぎとなり、人々は声を大にして教会の改革を叫び出しましたその改革を叫んだ人々の中に、イギリスのジョン・ウィクリフや、ボヘミア(チェコ国)のヨハネ フスというような司祭がいました。
彼らは教皇の権威に反抗してまで教会の改革を図ろうとし、後日、ルターやカルヴィンの口にしたような異説をとなえました。
幸いにそれは成功しなかったけれども、ルター等の先駆者となったことだけは確かであります。

結び--
不幸にして、活版印刷術の発明や、新世界の発見や、文芸復興やらは、不道徳、不信仰をもたらす機会となり、世はこぞって異教主義に後戻りするかとも思われました。




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