『アジア専制帝国 世界の歴史8』社会思想社、1974年
13 清朝の権力と富の行方
3 官逼(かんひつ=圧政)と民反(みんはん=民衆反攻)
「官逼民反」とは、官憲の圧政にたえかねて、民衆が反抗のために、立ちあがることを意味する。
中国歴代の王朝のなかには、かならずといってよいほど「官逼民反」という動きがあった。
それは決して王朝の末期にのみあらわれる現象でもなければ、漢民族の王朝とか、異民族の王朝とかの区別に左右される現象でもない。
皇帝を頂点とする官僚国家の体制が樹立されるかぎり、潜在的に存続する動きである。
それが王朝の後半から末期にかけて、記録の表面に激しくあらわれているにすぎないともいえよう。
したかって王朝の末期に、かならず民衆の反乱がおこるという指摘は、じつは正確な表現ではない。
「官逼」に対する反抗は、つねに存続し、それが王朝の後半においては、王朝の滅亡と関連づけられるほど、大きな動きとして位置づけられている面をもつのである。
このことは「民反」が王朝の初めから、つねに散発しつづけている事実から理解できよう。
清朝の繁栄などというけれども、それは決して「官逼民反」の動きを解消したものではなかった。
盛世といわれた時期にも、すくなからぬ民反がみられた。
しかもこの時期は、なお戦闘がつづいている時期であったことも見のがせない。
武力がものをいう時代、それは真の繁栄でもなければ、平和でもないといえよう。
「官逼」のつづくかぎり、「民反」の動きはつねに底流として存続する。
その場合、よるべなき民衆が、現世の利益や救いを説く宗教結社によりどころを求めやすいことも、ひとつの趨勢(すうせい)といえよう。
したかって宗教結社の存続する余地は、つねにともなうものである。
為政者たちは、しばしばこれを邪教として、弾圧をこころみる。
その場合、弾圧は「官逼」として、「民反」の動きをゆさぶることになる。
清朝でも、乾隆のなかばをすぎるころから、その動きが表面化しはじめた。
乾隆三十九年(一七七四)の初秋、山東省で清水教とよぶ数団をひきいて、王倫が蜂起した。
ときに清軍の多くは、乾隆十全の功の一つとしてほこる金川の乱の鎮定にあたっていた。
山東や河南の地方は、北京と南京との中間地帯をなす。
しかも山東・河南から安徽(あんき)にかけての地は、南北に通ずる輸送路の大動脈地帯にあたる。
そのことは、輸送路にそって経済的繁栄を想像させるかも知れないが、そうではない。沿線の都市に繁栄があり、おびただしい物資が輸送される反面、そこには貧困が渦(うず)をまき、まずしい労働者の往来がある。富者は官憲とともに奢侈にふけるが、不安定な生活に追われる多くの貧者が、沿線に同居する。
あい対する矛盾が同居するところに、宗教結社の生命が脈うつ。
王倫の清水教団も、また例外ではなかった。
清軍の多くは金川に派遣され、兵備はうすい。都市には、巨富がたくわえられている。いまこそ蜂起の好機であった。流言は各所に飛んだ。
官憲は「官逼」を強め、「民反」の動きはますますたかまりを示した。
八月の末、蜂起は、はじまった。輸送路をたち、沿線の要衝を攻略する。
しかしかれらには、その後の建設に対する理想がない。
一時の飢餓を県城の攻撃によって補うことはできても、その後の策はない。
虚に乗じて蜂起しても、官憲が体制を建てなおしてしまえば、くずれやすい。
ひとたび樹立された体制の打破は、決して容易ではなかった。
一ヵ月にわたる抵抗の末、王倫一派の蜂起は失敗した。
官側の記録では、王倫一派の清水教を白蓮教につながる邪教としている。
ある意味では、当時の結社のすべてを、白蓮教の名で総括する傾きがあった。
これを裏がえせば、白蓮教がとなえる弥勒下生(みろくげしょう)の信仰を根底にもって、多くの結社が、それぞれの名をつけていたことにもなろう。
したがって清水教が弾圧されたことによって、白蓮教系の結社が根絶するものでは、もちろんなかった。むしろ「民反」としての刺激を強めることにもなった。
いっぼう、官憲の側も邪教として諸結社への探索を強め、「官逼」は、諸結社におよびはじめる。まさに連鎖反応の動きとなった。
王倫一派の蜂起を平定した翌年、官憲は、混元教の教首たる劉松という人物を、となりの河南省で捕え、甘粛省に流刑とした。
しかし、この事件は、流刑をもって終わるものではなかった。
劉松の弟子たちの動きがはじまるのである。
劉松の弟子に、安徽省出身の劉之恊という人物がいた。かれは、混元教が弾圧され、劉松が流刑にされると、名を三陽教とあらためて、活動をはじめた。
かれは、明の帝室の子孫として王発生という童児を立て、牛八と名づけた。
牛八は朱の字を二分したもので、明朝の朱姓に由来する。
また、弥勒下生として劉松の四児をたて、牛八を輔佐する形をとらせた。
入教者は水火刀兵の難をまぬがれると説き、根基銭という資金をも集めはじめた。
まさに白蓮教徒が立ちあがる前哨である。