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8-8-4 「日本国王」に冊封

2024-01-16 14:51:40 | 世界史
『アジア専制帝国 世界の歴史8』社会思想社、1974年
8 日本の朝鮮侵攻
4 「日本国王」に冊封

 さて明の「使者」が日本におもむいたとき、これに呼応して日本からも講和使を明国へおくりこんだ。
 正使は、小西行長の客将たる内藤(飛騨守)忠俊である。
 行長とおなじくキリシタンで、如安と称した。よって内藤如安とも呼ばれる。
 如安は三十数名の随員をしたがえ、沈惟敬とともに、六月二十日、釜山を発して北へむかった。
 このころは秀吉も、和議の成立に期待をかけている。
 明の「使者」が帰国するや、七月の末には朝鮮の二王子もかえしてしまった。
 明軍もまた朝鮮から引きあげた。
 しかし日本の講和使の一行は、九月に遼東まで達したところで、その地に監禁されてしまったのである。
 明朝においては、なお強硬論がさかんである。のみならず、朝鮮からの働きかけがあった。
 朝鮮こそ、ゆえなくして日本からの大軍をうけ、国土を荒らされ、人民をうしなったのである。
 しかも日本は、南半の四道を要求しているという。このまま日本と明朝の講和ということになれば、いったい朝鮮は何のためにぎせいになったのか。
 朝鮮は、しきりに明朝の主戦派に働きかけていた。
 それと同時に、朝鮮は日本の主戦派へも働きかけた。
 いま、和議をやぶるために朝鮮が期待したのは、加藤清正である。
 清正のもとには、しきりに朝鮮からの使者が出入りした。
 清正と行長とを離間させ、さらに清正をして秀吉にそむかせることが、朝鮮のねらいであった。
 もちろん清正は、その誘いにはのらない。
 しかし朝鮮の使者とたびたびの交渉をもったことで、清正はあらぬ疑いをかけられた。
 主戦論をとなえることも、軍令をやぶるものと見なされた。
 こうして清正はついに「太閤の勘気」をこうむるにいたる。
 和議はいっこうに進まない。内藤如安らは遼東にとどめられたまま、年をこした。
 すでに万暦二十二年、文禄三年である。
 明朝とて、いまさら腰をすえて、日本と戦おうというほどの熱意はない。それだけの余裕もない。
 そこで、こんどは朝鮮国王に対して、日本との講和を願いでるよう、うながした。
 朝鮮としては思いもよらぬことであった。講和などは、もっとも欲しないところである。
 それを柳成龍が、明朝の意向にさからうのは不利と説く。
 ついに国王も折れて、請和の使者を発することになった。朝鮮の使者は万暦二十二年の九月、北京に入った。
 こうして明朝も、ようやく講和にふみきる。ただし日本へは「封」をゆるすのみ、と決せられた。
 監禁されていた内晏如安らも、北京にむかえられる。それが十二月のことであった。
 ただちに和議の交渉がはじめられた。もちろん如安は、行長らの意を体して「封・貢」を求めた。
 しかし明朝の態度はきわめて固い。「封」だけはゆるす、日本軍は朝鮮から完全に引きあげること、今後ふたたび朝鮮を侵さぬこと、などの約束をせまったのであった。
 如安としても、戦争を終結させようとすれば、こうした条件で手をうつほかはなかった。
 ついに明朝は「貢」をゆるさなかった。
 それは実質が貿易であり、明朝としては貿易の拡大を欲していなかったからである。
 それも相手が恭順ならば、認めてもよいであろう。
 しかし、日本の場合は兵を動かした。たやすく認めるべきではない。
 「封」だけならば、かつて明朝は足利義満を「日本国王」に封じた例がある。
 近くはモンゴルのアルタンが帰順したとき「順義王」に封じた。
 これにならって、とくに願うならば、ゆるしてやろうというわけであった。
 はじめは王号も「順化王」とされたのである。それが義満の例にしたがって「日本国王」と改められた。
 明朝としては、大きな譲歩をしたつもりである。
 万暦二十三年(一五九五)正月、明朝の勅使は北京を発する。
 内藤如安らをともなって、四月には京城に達した。
 正使は李宗城、副使は楊方享であり、随員として沈惟敬がくわわっている。
 惟敬はまず行長にあって、日本軍の撤兵を求めた。
 勅使たちは、そのあとで日本にわたろうというのである。
 しかし秀吉の意向は、和議が成立したら撤兵するというものであった。
 さらに秀吉は、朝鮮からも使者を派遣することを要求してきた。これは朝鮮国王が承知しない。
 講和そのものに反対であり、使者を日本につかわすなど、もってのほかという態度であった。
 和議は、またしても停頓した。ここまできて和議がやぶれることを、行長は心配した。
 そこで行長は日本へかえり、秀吉につよく進言する。ようやく秀吉も撤兵をみとめた。
 釜山の付近にいくらかの兵をのこして、ほかはことごとく半島から引きあげた。
 明朝の勅使も、いよいよ日本にわたる。朝鮮国王も、ここにおいて使者をだすことをみとめた。
 勅使が北京を発してから、じつに一年半もついやしたのである。
 しかも正使の李宗城は、日本に行って害されることをおそれ、姿をくらましてしまった。
 やむなく楊方享が正使に、沈惟敬が副使に昇格して、かたちをととのえた。
 勅使の一行が釜山を発したのは万暦二十四年の六月である。そして八月に堺に入港した。



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