「摂理」永井隆
ー 主与えたまい、主取りたもう。主のみ名は常に賛美せられよ!
元来私は、無より神の愛によって創造された。母の胎内に宿った時が私の創造であった。その時以来今日に至るまで、私の得たすべての物は皆神の与えたもうたところである。健康、才能、地位、財産、家族など、すべて元来私の所有ではなかった。だから、いつどこで、これらのものを取り上げなさっても、私が損をするわけでもなく、また得をするわけでもない。別に嘆き悲しむに当たらない。み摂理のままにお任せするのが当たりまえである。そしてみ摂理は常に感謝し賛美せらるべきものである。なぜなら、神は愛する一人の人間を創造になった、それが私であったからである。神は私を愛したくて、私を創造なさった、神に悪意の創造はない。神は常に私を愛し、絶えず私の幸福を願っておられる。与えたものが愛の思し召しによるものであると同じく、取りたもうのも愛の思し召しによる。私の身のまわりに起こるすべては、神の愛の摂理のあらわれである。それゆえ私はいかなる目にあおうとも、神のみ名を賛美せずにはおられない。
原子燃弾がはじけたとき、この浦上のカトリック信者一万のうち八千人が死んだ。ここには純心と常清の二つの女学校があった。いずれも女子修道会の経営するところで、校長以下教員は修道女がほとんどすべてであった。純心の生徒たちは、工場に動員されていたが、燃ゆる火の中で賛美歌を歌いつつ、次々と息絶え、灰になっていった。それはまったく古の神の祭壇に汚れなき小羊をささげ燃やして神の御意を安らげた燔祭さながらであった。ああ、第二次世界大戦の最後の日、長崎浦上の聖地に燃やされた大いなる燔祭よ!
燔祭の 炎のなかに うたいつつ
白百合少女 燃えにけるかも
常清女学校のほうも同じ最期だった。ここでは二十七人の修道女教員が天に召された。その夜私は教室の小笹君たちを患者の手当てに出したが、その話によると、女学校から東のほう二百メートルの川端に真夜中幾人かの合唱するラテン語の賛美歌が続いたり絶えたり聞こえていたそうである。夜歩明けてみたら修道女がひとかたまりになって、冷たくなっていた。・・・ゆうべの賛美歌はこの修道女たちが歌っていたのであろうか? それとも霊魂を迎えに降りてきた天使の群が歌っていたのではなかったろうか? そう思わずにはおられない、きよらかな死に顔が並んでいた。
それを見た生き残りの私たちは、原子爆弾は決して天罰ではなく、何か深いもくろみを持つみ摂理のあらわれにちがいないと思った。
- 私も同じ目、無一物の弱り果てた者となって、幼い二人の子をかかえて焼け跡に立たされたのだが、これは何かは知らねど、愛の摂理のあらわれである、と信じて疑わなかった。
それから三年の月日をしのいて今日に至ったが、あの日の私の信仰が正しかったことが次第次第に証明されてくる。原子爆弾によって私の正しい道をはばんでいた邪魔が取り除かれ、私は真の幸福を味わうことができるようになったのである。
やがて私を訪れる、死もまた、かぎりなき愛にまします神の私に対する最大の愛の贈り物であろう。それゆえ、死の前に通らねばならぬ心の悩みも体の苦しみも、神のみ栄えのあらわれるために必要なものとして、悦んでこれを受けようと思っている。死とは霊魂が肉身を離れることだ。蝉が抜け殻を地面において明るい空に飛び立つようなものだ。地にすむ幼虫は日の光あふるる大地を知らぬから、抜け殻を見て悲しんだり嘆いたり恐れたりしているだろうが、空に向かって飛んだ蝋は声高らかに歌っている。・・・
永井隆『この子を残して』(著者はカトリックの医師・医学者、被曝)
ー 主与えたまい、主取りたもう。主のみ名は常に賛美せられよ!
元来私は、無より神の愛によって創造された。母の胎内に宿った時が私の創造であった。その時以来今日に至るまで、私の得たすべての物は皆神の与えたもうたところである。健康、才能、地位、財産、家族など、すべて元来私の所有ではなかった。だから、いつどこで、これらのものを取り上げなさっても、私が損をするわけでもなく、また得をするわけでもない。別に嘆き悲しむに当たらない。み摂理のままにお任せするのが当たりまえである。そしてみ摂理は常に感謝し賛美せらるべきものである。なぜなら、神は愛する一人の人間を創造になった、それが私であったからである。神は私を愛したくて、私を創造なさった、神に悪意の創造はない。神は常に私を愛し、絶えず私の幸福を願っておられる。与えたものが愛の思し召しによるものであると同じく、取りたもうのも愛の思し召しによる。私の身のまわりに起こるすべては、神の愛の摂理のあらわれである。それゆえ私はいかなる目にあおうとも、神のみ名を賛美せずにはおられない。
原子燃弾がはじけたとき、この浦上のカトリック信者一万のうち八千人が死んだ。ここには純心と常清の二つの女学校があった。いずれも女子修道会の経営するところで、校長以下教員は修道女がほとんどすべてであった。純心の生徒たちは、工場に動員されていたが、燃ゆる火の中で賛美歌を歌いつつ、次々と息絶え、灰になっていった。それはまったく古の神の祭壇に汚れなき小羊をささげ燃やして神の御意を安らげた燔祭さながらであった。ああ、第二次世界大戦の最後の日、長崎浦上の聖地に燃やされた大いなる燔祭よ!
燔祭の 炎のなかに うたいつつ
白百合少女 燃えにけるかも
常清女学校のほうも同じ最期だった。ここでは二十七人の修道女教員が天に召された。その夜私は教室の小笹君たちを患者の手当てに出したが、その話によると、女学校から東のほう二百メートルの川端に真夜中幾人かの合唱するラテン語の賛美歌が続いたり絶えたり聞こえていたそうである。夜歩明けてみたら修道女がひとかたまりになって、冷たくなっていた。・・・ゆうべの賛美歌はこの修道女たちが歌っていたのであろうか? それとも霊魂を迎えに降りてきた天使の群が歌っていたのではなかったろうか? そう思わずにはおられない、きよらかな死に顔が並んでいた。
それを見た生き残りの私たちは、原子爆弾は決して天罰ではなく、何か深いもくろみを持つみ摂理のあらわれにちがいないと思った。
- 私も同じ目、無一物の弱り果てた者となって、幼い二人の子をかかえて焼け跡に立たされたのだが、これは何かは知らねど、愛の摂理のあらわれである、と信じて疑わなかった。
それから三年の月日をしのいて今日に至ったが、あの日の私の信仰が正しかったことが次第次第に証明されてくる。原子爆弾によって私の正しい道をはばんでいた邪魔が取り除かれ、私は真の幸福を味わうことができるようになったのである。
やがて私を訪れる、死もまた、かぎりなき愛にまします神の私に対する最大の愛の贈り物であろう。それゆえ、死の前に通らねばならぬ心の悩みも体の苦しみも、神のみ栄えのあらわれるために必要なものとして、悦んでこれを受けようと思っている。死とは霊魂が肉身を離れることだ。蝉が抜け殻を地面において明るい空に飛び立つようなものだ。地にすむ幼虫は日の光あふるる大地を知らぬから、抜け殻を見て悲しんだり嘆いたり恐れたりしているだろうが、空に向かって飛んだ蝋は声高らかに歌っている。・・・
永井隆『この子を残して』(著者はカトリックの医師・医学者、被曝)
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