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4-14-1 大唐の長安

2023-03-05 13:59:58 | 世界史
『六朝と隋唐帝国 世界の歴史4』社会思想社、1974年
14 大唐の長安
1 壮大な都市計画

 大文字山の上に立てば、千年の歴史を秘めた京都の碁盤割りの市街を一望のもとに見おろすことができる。
 はじめて平安京が造営されたときのことを考えながら、あの整然とした都市計画を見おろすことができるのは、大きな喜びである。
 しかし残念なことに、かっての平安京においては、北端の中央に宮城が南面していたものが、いまの御所(ごしょ)はその位置が移動してしまった。
 ともあれ、平安京および、これにさきだつ平城京のプランが、唐の長安の都を手本にしたことはいうまでもない。
 唐の長安城は隋の大興城あとをうけついで完成されたものである。
 こういう首都プランは北魏の洛陽城にはじまる。
 漢代の長安城は、宮城や市の位置が唐代とはちがっていた。
 その配置も、計画的なものではなく、都市が膨張していった結果、つぎつぎにつくり足されていったものに過ぎなかった。
 中国の古い都市は、すべて城壁でかこまれている。長安でも同様であった。
 長安の城壁は、東西が九・七キロ、南北が約八・六キロ、城壁の高さは五・三メートル。広さは平城京や平安京のおよそ四倍であった。
 そして南北に十一条の街(がい=大道)が走り、その幅は中央の朱雀(すじゃく)大街で約一五〇メートル(一〇〇メートル道路どころではない)。
 東西の街は特別の広いところをのぞいて、七五から二五メートルであった。
 まさしく「人類が持ったもっとも大きくしてもっとも整えられた街路であろう」(平岡武夫)。
 ともかく、いまから一千三百年も前、自動車もない時代に、このような首都計画をした唐代の人たちのスケールの大きさには、おどろかされる。
 唐代の長安の人口は百万といわれるが、いまの京都と比較してもわかるように、城内でじゅうぶん余裕があった。
 じじつ城内の南方の六分の一は人家もすくなく、さびしいところであったらしい。
 周囲には十三門をひらき、北端の中央は皇帝の住居で、また政治や儀式もおこなう宮城があった。
 その南が官庁街たる皇城で、皇城の南東と南西に東市と西市という、ふたつの市場があった。
 のちには宮城の西北に大明宮(たいめいきゅう)がつくられ、そこが皇帝の住居となっている。
 宮城と皇城のあいだには、幅四五〇メートルの横街(おうがい)とよばれる大道路があった。
 皇城とよばれる官庁街がまとまってあるのも、これまでの都城にはない特色である。
 長安城内は宮城と皇城をのぞいて、南北十四、東西十一の街によって、整然と区画され、朱雀門(皇城の正南)と明徳門(外郭城の正南)とをむすぶ朱雀大街によって、左街(東)と右街(西)とにわけられた。
 左街は万年県、右街は長安県となる。各街の南がわには溝(みぞ)があり、また楡(にれ)などの並木もあった。
 街(がい)にかこまれた区画を坊(ぼう)という。
 崇義坊、太平坊などと名づけられ、左右の街に合計百八坊あった。

 坊のまわりは土塀でかこまれ、内部には巷(こう)・曲(きょく)という小さい道路が十字にあり、それぞれの坊に二または四の坊門があった。
 門はすべて朝夕の鼓(こ)の合図によって開閉された。夜間は坊外にでることができない。
 これを犯すと、笞(ち=むちで叩く刑)二十に処せられることになっていて、これを夜禁といった。
 東西両市の営業も、正午から日没までで、そのほかの坊では商店をゆるさないのが原則である。
 左街はおもに官吏の邸宅であり、右街はおもに庶民が住み、その雰囲気もちかっていた。
 東の春明門からは東都の洛腸に通じ、西の開遠門はシルク・ロードにつらなった。
 城内の南東隅には曲江池(きょくこうち)があり、皇帝はじめ一般庶民の遊楽地であった。


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