カトリック情報 Catholics in Japan

スマホからアクセスの方は、画面やや下までスクロールし、「カテゴリ」からコンテンツを読んで下さい。目次として機能します。

秋田の聖母 シスター笹川の夢

2016-08-04 08:56:12 | 私的啓示(ファティマ等以外)
安田貞治神父『日本の奇跡 聖母マリア像の涙 秋田のメッセージ』pp.217-225

 昼食のとき、ひとりのシスターから、シスター笹川の見たおそろしい夢、という話題が持ち出された。興味をひかれて、私がその詳しい話をもとめると、シスター笹川は、恐る恐るという感じで語りだした。

「今朝、ひどい迫害を受ける夢をみて、目が覚めてもしばらく動悸がおさまらないくらいでした。私の前に、おおぜいのそれぞれ宗教家とおもわれる一団が立っていました。それをひきいる、かしらのような、ねずみ色の服のカトリック神学者とみえる神学者が進み出て、私にこういう言葉を浴びせてきました

 『三位一体の神がなぜ唯一であるのか。われわれは、キリストが神であると信じることはできない。カトリックの教えの山はどこにあると思うのか。おまえが神を信じ、神に仕える者であるなら、なぜわれわれと同じく、八百万(やおよろず)の神々を神と認めないのか。
  神を信ずる者だというなら、われわれ同様に、八百万(やおよろず)の神を信じろ。そうすれば、われわれも皆でカトリックになろう。われわれの仲間になれば、われわれのように面白おかしく人生を楽しんで生きられるものを。
  お前たちは、好きこのんでそのような生活をしている。そんなお前を見るのがかわいそうだ。いま、おまえは、はっきりと、三位一体の神が唯一ではない、八百万(やおよろず)の神々も神と信じるということをわれわれの仲間に言ってくれ。でなければ、この苦しみを受けよ!』

 そういって、つえのようなものを、ふりあげましたが、みるとそれは大きなヘビで、私の体に巻きついてきました。恐ろしさんじ声も出ないほどでしたが、必死に答えました。

 『三位一体の神さまだけが唯一の神です。そのほかに、いかなるものも神と信ずることはできません。キリストが神である、と信じられないなら、カトリックになることはできないでしょう。カトリックの山は、キリストが神であり、人であるということだと思います。』

 すると相手は、

 
 『キリストが神だというのか。いや、われわれはそれを信じることはできない。お前たちはキリストの復活を信じて、カトリックになったのであろう?』

 と、念を押すので

 『はい、そのとおりです。そして、キリストが神であり人であることを信じて、カトリックになりました。』

 と答えると、ヘビが、いちだんと強く巻きついてきて身動きもできなくなりました。ヘビは、ときどき赤い鋭い舌をチロチロと出しながら、その口を私に向けて寄せてきます。

 恐ろしさと、身を締められる苦しさで、あとは、同じ質問を繰り返し投げかけられても、答える元気もなくなってきました。ただ、夢中でロザリオを握ってその祈りを唱えていました。
 
 ヘビが赤い舌を顔に寄せてくるときだけは、ロザリオをふりあげて追い払っていましたが、その力もだんだん弱ってきました。

 助けを求めて見回すと、右側には仲間のシスターたちが並んでいます。

 どう助けることもできず、ただオロオロしているのが手にとるようにわかります。

 目があうと、『わたしたちがついているから、がんばってね』とそれぞれのまなざしが言うだけです。
  
 日ごろ頼りにする長上も、皆そろって御姿が見えるのに、だれからも救いの手は伸ばされません。

 もう、疲れ果てて、ヘビの頭を払いのける力もつき、祈る声もでなくなったとき、不意に安田神父様が目の前に飛び出して来られました。

 『聖父と聖子と聖霊との御名によって、アーメン(ちちとことせいれいとのみなによって、アーメン)』
 と、大きく十字架のしるしをしてから、
 
 『彼女の言うように、我々は皆、三位一体の神が唯一の神であると信じている。それを信じることができない者は、カトリック信者になってもらわなくてよい』

 と、声高くおっしゃいました。すると、まず、左側の気味悪い
 一団の先頭に立って私を責め立てていた頭分が、たじたじとなって退き、
 続いて私に巻きついていたヘビも離れました。

 ヘナヘナとくずれおちた私をようやくシスターたちが助けに来てくれました。
 
 私は神父様にお礼を言う力もないほど、弱りきっていました。汗が噴き出るように流れるけれど、それをぬぐう気力も出ないでいると、守護の天使が現れてふき取ってくださいました。

 そこで、目がさめたのですが、実際に全身が汗びっしょりでした。ああ、夢でよかった、と起き上がろうとしましたが、胸がまだ締め付けられるように苦しくて、すぐには起きられませんでした。手足も冷たくなっているし、隣室のシスターを呼ぼうと思ってものどが締め付けられたなごりで、声もでません。
 枕もとの時計を見たら、午前4時半を過ぎたところでした。

 やっと起き上がってみると、ねまきはもちろん、ふとんまで体のかたちに
 汗がにじみとおっています。それで、まだ日もでていないけれど、窓に干した
 のでした。

 お聖堂に行っても、祈りのうちにも夢がまざまざと浮かんでくるので、一心に御助けを願いました。共同の祈りになっても、まだ体に力がなくて
 声がでませんでした。

 この夢の話はだれにもしないはずだったのに、あまりにも恐ろしかったので、つい隣の席のシスターに、怖い夢をみたと、口をすべらしてしまいました。
 
 どんな・・・と聞かれましたが、朝食中だったので、あとで、とことわりました。食後、お礼拝のあとで、そのシスターが私の部屋までわざわざ聞きにこられたので、一部始終を話しました。そしたら、『こわかったでしょう。ほんとに、ふとんはまだ濡れている』と、おどろかれたようでした。

 そして、いま、神父様にも判断していただくように、この話題を持ち出されたのだと思います」

という報告であった。

 聞き終わった私は、シスター一同の、物問いたげな表情を見回しながら、ただの悪夢とは思えない、と前置きして、自分なりの解釈を述べてみた。

 これは、笹川さんだけに関することではない。現代の教会の姿、その動向をも暗示しているように考えられる。教会は、宣教の旗じるしのもとに、次第に異教、他神教への接近をこころみる傾きがみられる。
 同時に、他宗教と妥協する傾向をたどり、信仰の生き方を、この世的に考えて、比較的、楽な方向に向けていく。
 現在すでにそのような安易さへの迎合が、教会の指導層に見えてきている。
そういう風潮に流されぬように、私たちも心をひきしめて、神のみことばを誠実に守る使命に尽くさねばならぬと思う・・・

 この意見を、シスターたちは、うなずいて聞いていたが、中にはたかが夢にすぎないことを・・・と、まじめに受け取る気にならない者も
いたようであった。

 ところが、その夕方のことである。晩の聖務に先立つロザリオの終わったとき、姉妹笹川があわただしく寄って来て「神父様、となりのへやに蛇がいます」と告げた。立って行き応接間の戸を少し開けてみると、奥の壁ぎわに大きな蛇がとぐろを巻いている。姉妹たちも背後から目にしたらしいので、私はまず一同を落ちつかせるために、今は祈りの途中であるから続けるように、と命じて戸をしっかり閉めた。やがて晩の祈りの終わったところで、蛇を応接間から玄関口へ追い出し、戸外で始末したのであった。

 あとから姉妹笹川の説明によると「ロザリオの終わりに“いと尊きロザリオの元后、われらのために祈り給え”と唱えているとき、守護の天使が現れて『いま隣りのへやに蛇がいるから、神父様に伝えなさい。あなたの夢の話をかるがるしく聞いた人があるので、それを正すためです。神父様がよく導いてくださるでしょう』と言って姿を消されました。おどろいて、先唱をちょっとやめて、境の戸をそっと開けてのぞいてみたら、夢に見たと同じような大きな蛇が丸くなって鎌首をもたげて、舌をチロチロ出しているので、いそいで神父様にお知らせしたのです」ということであった。

* * *

 これは今から思えばもう十二年前の、一つの悪夢とそれにつらなる出来事であるが、あらためて吟味すると、いろいろな警告がふくまれているように思われる。さらに、近い将来にあてはまる重大な示唆がみとめられるようである。
 姉妹笹川を責めたてた神学者めいた頭目の言い分を、とり上げてみよう。
その第一は、三位一体の神がなぜ唯一の神なのか、という詰問である。天地創造の神を信じてきたユダヤ教にしても、神は唯一とみとめても、三位一体の秘義は知らなかった。この三位一体の秘義の啓示を受けなければ、イエズス・キリストが唯一の神の子であることも、信じることはできないわけである。迫害者は「われわれはキリストが神であると信じることはできない」と宣言しているが、この問題は今に始まったことではなく、唯物論の抬頭と科学主義時代の幕明きと同時に、人間精神を揺すぶってきた課題である。今や教会の中にも、多種多様の形で婉曲な唯物思想やヴェールをかぶった無神論が入り込んでいることは、蔽いようのない事実である。

 この夢では、ひとりの神学者が唯物思想をもって、戦いをいどんでいるが、これはまた現代精神の滔々たる趨勢を、表徴しているごとくである。
 彼の主張によれば、八百万の神々、すなわち昔から日本にあった在来の神々を信じれば、われわれも皆カトリックになる、という。これは妥協による容易な福音伝道をめざす、安易な宣教活動の態勢と合致するものである。
 結論としては「われわれの仲間になれば、人生をおもしろおかしく、楽しく生きられるものを」と憐れむごとく誘いをかけ、信仰を現世的生活の享楽の補充とさえしているのである。つまりは、この世に生きる人間生活が大事なのであって、崇高なる神の次元に結びつく超自然の生活を否定するのである。
 ここに、たかが夢の話として軽視できぬものを、私は感じとったが、実はやがて彼女の受けるべき試練の前知らせのようなものであったと思われる。そのような意味がふくまれる故にこそ、天使が先の治癒の予告にさいして「今朝の食卓で夢のことが話題となったでしょう。心配することはない」とわざわざ言及されたのであろう。そして、夢を軽んじた者のために、現実に蛇を目に突きつけて、反省をうながされたのであろう。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。