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4-14-3 西方伝来の宗教

2023-03-07 20:09:21 | 世界史
『六朝と隋唐帝国 世界の歴史4』社会思想社、1974年
14 大唐の長安
3 西方伝来の宗教

 ずっとくだって明代の末(一六二三年ごろ)、長安の一角で「大秦景教流行中国碑」という碑文が土中から発見された。
 高さ二・七六メートル、底部の幅一メートル、碑の厚さ二十七センチ。
 それに一干八百余の漢字と、五十余のシリア文字が刻まれていた。
 大秦とは、中国においてローマ帝国をさす言葉であり、景教とはキリスト教の一派たるネストリウス派のことである。
 景とは、光りかがやくという意味から、このように名づけたといわれる。
 ネストリウスは、イエスおよび聖母マリアの神性説(三二五年、ニケーヤ宗教会議で決定)に異議をもち、イエスは人であって同時に神性があり、聖母マリアは神ではないという説をとなえた。
 このネストリウスの説は、四三一年に異端と宣告された。
 そのためネストリウスおよびその派の人々は、東方に伝導をはじめたのであった。
 それから二百年たって、ネストリウスの教えは中国にも伝わった。これを中国では景教とよんだ。
 中国に対する最初のキリスト教の伝来である。
 太宗の貞観九年(六三五)イラン人の阿羅本(あらほん)と袮する人が首班となって、伝導団が長安に到着した。
 貞観十二年、太宗はその宣教をゆるし、その寺院を建立させた。
 則天武后のときに、仏教徒に弾圧されたが、玄宗の世におよんで、これまで波斯寺(はしじ=波斯とはペルシャのこと)といっていたのを大秦寺(たいしんじ)とあらためた。
 そして徳宗の建中二年(七八一)、「大秦景教流行中国碑」が建てられ、伝来の経過および、そののち百五十年間の景教盛衰のあとが記されたのである。
 さらに二十世紀の初め、高昌(卜ルファン)や敦煌(とんこう)で発見された文書のなかに「一神論」など漢訳の景教の経典があった。
 そこには景教が、その本来の面目をかえて、中国の伝統思想に順応していこうとする努力のあとも、みることができる。
 イランの国教たるゾロアスター教も伝来し、祆教(けんきょう)とよばれた。主神をアフラ・マヅダというので、マツダ教とよばれ、火を拝するので拝火教ともいう。
 その教えは光明と闇黒と、善と悪との二元的なものの対立を本体とする。そして、この二元は、たがいに勝敗をきめるたたかいをしている。光明で善なる神が、アフラ・マヅダであった。
 ゾロアスター教は、すでに北周~北斉のころに尊信されていたが、唐代になってイラン人やイラン系文物がさかんに伝来したのにともなって、各地にひろがった。
 唐代では祆教を取りしまるための官として、薩宝(さつぽう)が設けられている。
 祆教徒の数がすくなくなかったことが、うかがわれよう。
 この祆教は、そのころ来住していたイラン系の人たちによって信奉されたもののようである。
 また薩宝の職についたのも、イラン系の人であった。

 また中央アジアで発見された資料のなかにも、漢訳の祆教経典は存在していない。
 おそらく中国人には、ほとんど信奉されなかったのではなかろうか。
 イランのゾロアスター教では、もともと偶像に類するものへの礼拝はなかった。
 しかし中国に伝来してからは、祠堂の形式のものが多少あったようで、中国的変容を思わせる。
 長安や洛陽などには、たしかに祆祠(けんし)がたてられていた。
 ほかにイラン系の宗教としては、マニ教があった。中国では摩尼(マニ)教と書いている。
 マニ教は三世紀の初め、イラン人のマニが、ゾロアスター教を根幹とし、それにキリスト教や仏教やバビロニアの古い信仰、さらにギリシア哲学の一派を加味してつくった混合宗教である。
 ゾロアスター教の迫害をうけて、国外に追われ、西域をへて、則天武后の延載(えんさい)元年(六九四)に伝来した。
 八世紀の中ごろには、トルコ系のウイグル(回屹)帝国において国教のような地位を占めている。
 マニ教は、ゾロアスター教がイランの民族宗教であったのに対して、世界宗教的であった。
 近ごろ発見された資料のなかには、ペルシア語をはじめ、ソグド語やトルコ語やコプト語(中世のエジプト語)の経典があり、さらに漢文のものもあって、その伝播のひろいことが証明された。
 漢訳の経典が存在したことによって、中国人のあいだにも相当の信奉者のあったことがわかる。
 もっとも唐代の中期以後では、ウイグル人たちが中国の各地に多数流入しているから、主としてそれらの人たちによって信仰せられたものであろう。
 代宗の大暦三年(七六八)には、長安に大雲光明寺というマニ教の寺院が、ウイグル人の要請によって建てられた。
 ほかの地にも同名の寺ができた。
 玄宗の開元二十年(七三二)にはマニ教を禁止したが、ウイグル人には及ばなかったのである。
 マニ教にともなって伝来したものに、イランの七曜があった。
 わが藤原道長(九六六~一〇二七)の『御堂(みどう)関白(かんぱく)記』には、日曜にあたる日が「密」と記されている。
 この密は、ソグド語の日曜日のMirを写したものである。
 これはイランの暦法がソグド語で伝えられ、唐代の中国でおこなわれていたのが、わが国に伝えられたものである。


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