本会のある人がその友人の金を盗んだとざんげんされ、家中にふれまわられたことがあります。それは本当ではありませんでしたが、その人は決して弁明しませんでした。しかし、このように無実の罪をきせられたので、心のなかで、「身のあかしを立てるべきではないか。おまえはまったく無実の罪を負わされているのだ」と考えるのでした。しかし、かれは心を神にあげて、「いや、これを忍耐ぶかく堪えていかなければならない」と言い、そのとおりにしました。その後どうなったでしょうか。つぎのことが起こりました。六か月ののち、盗みをはたらいた人が百里はなれたところで自分のあやまちを認めました。ごらんなさい。神はときどき人々をためすために、このようなことが起こるのを許されるのです。
聖ヴィンセンシオ・ア・パウロ 『全集』XI p.337
聖ヴィンセンシオ・ア・パウロ 『全集』XI p.337