『文芸復興の時代 世界の歴史7』社会思想社、1974年
11 日の沈まない国――フェリペ二世のスペイン――
1 カトリックの反撃
ルターやカルバンの宗教改革が、ローマ・カトリック教会に与えた打撃ははかりしれないものであった。
彼らの地域ではプロテスタントの教会がそれぞれの政治権力と深くつながってしまい、ローマ・カトリック教会の強力な牙城(がじょう)のようにみえた大学さえ、所在地の権力に奉仕する官僚的教授の団体になってしまった。
カトリックにとどまった国々も、この傾向に乗じて、教会行政に関することまで、なるべくローマの指図(さしず)を受けないという国民主義的傾向を示しはじめた。
もはやローマ・カトリック教会も、好むと好まざるとにかかわらず、宗教と政治の分離の方向を確認しないわけにゆかなくなったのである。
ルターにひっかきまわされたローマ教皇は、一五三〇年代までは明瞭な対抗策をもたず、むしろ妥協によって決定的分離を阻止できると夢みていた。
教皇クレメンス七世(在位一五二三~三四)はもとより、パウルス三世(在位一五三四~四九)も、当初はかなり柔軟に問題を考えていた。
それは、神聖ローマ(ドイツ)皇帝カール五世(在位一五一九~五六)とのイタリアをめぐる勢力争いに関連することでもあったが、教皇たるもの、スケールが大きくなくてはという立場に立ってのことである。
教皇たちのこの政治家的態度は、宗教的には「対抗策」の名に値しないただのサボタージュであったが、プロテスタント側のエラー(調子にのりすぎた圧政)を誘い、南ドイツなどでカトリック側勢力をかなり回復した。
そしてパウルス三世が、一五四〇年有名なイエズス会(ヤソ会)を公認し、一五四二年宗教審問制度を設け、トリエント(トレッド)公会議――宗教会議――(一五四五~六三)を開催するにおよんで、教皇の態度はきびしい方向に煮つまっていった。
そしてこの変化には二つの局面がある。
イタリア半島のなかでのみ影響力の強かった教皇は、半島からプロテスタントを追いだすことにともかく成功した。
そしてヨーロッパに対する教皇の影響力は十六世紀前半における神聖ローマ皇帝カール五世の、そして後半におけるスペイン王フェリペ二世(在位一五五六~九八)のバックアップによったといえよう。
この二人の君主はカトリック勢力のホープとして、ことプロテスタント問題に関するかぎりは、教皇を支持したのである。
いわゆる対抗宗教改革の一方のチャンピオンは、「イエズス会」であった。
創始者イグナティウス・ロヨラ(一四九一~一五五六)はスペインの軍人貴族であったが、一五二一年負傷して片足を失い、療養中発心(ほっしん)して、はだしでエルサレムに巡礼し(一五二三~二四)、無学をさとって晩学ではあったが、勉強を開始し、パリ大学にいた一五三〇年ごろは、カルバンともいっしょであった。
一五三四年、同志六人とともにカトリック復興を誓う団体を結成、一五四〇年教皇の認可をうけた。
翌年ロヨラがローマに招かれてから、強大なイエズス会組織への発展が開始された。
当初の同志に、日本をふくむアジア布教で知られるザビエル(一五〇六~五二)がいた。
イエズス会は軍隊的な組織をもち、全ヨーロッパ的に活動するため各地に学校をつくり、会員をカトリック君主の告解聴問僧兼政治顧問に送りこんだ。
ロヨラは強烈な宗教体験にもかかわらず、狂信的でなく、晩学のためであろうか、学者を尊敬した。
そのためか、イエズス会はローマ・カトリック教会、プロテスタント諸派を通じて、もっとも学者に対し寛容であり、また信仰の面でも、融通自在というところがあった。
会の勢力拡大のためにはどんな妥協もあえて断行したので、その面でローマ教会の恐るべき手先として、君主たちから警戒され、またカトリックの原則への不忠実ということで、他の修道会から憎まれた。
要するに洗練された社交性をもった、ルネサンス型教皇の好みを代弁し、カトリック教会の国際性をもっとも実質的に回復しようとしたのが、イエズス会であった。
十七世紀、イエズス会系の学校が、フランスの有名な思想家デカルトやパスカルを生んでいることは、功績とよんでよいであろう。
しかしイエズス会のみが対抗改革をやったのではない。
イエズス会を、巧妙に抵抗の少ない分野を開拓した知的な改革派とすれば、ドメニコ派やフランチェスコ派は激突派ともいうべき、異端審問で勇名を残した。
異端審問は一五四二年までにも長い歴史をもっており、これらの両修道会はとくにその道の専門家であった。
これを単なる残虐行為とうけとるのはあやまりである。
異端であるユダヤ教徒やイスラム教徒を、キリスト教に改宗させるための専門技術は主として説得であり、人間心理への深い理解であったからである。
しかし改宗しない者に対する拷問や火刑には遠慮がなかった。
なお火刑は、「教会は血を好まない」ところから考案されたものである。
そしてこういう拷問や火刑をふくむいわゆる宗教裁判が、もっともはげしかったのはスペインであった。
その犠牲者にオランダのプロテスタントが多かったことは、後述するオランダのスペインからの独立戦争とあわせて理解される。
要するに宗教裁判による対抗宗教改革は、スペイン好みといってよいだろう。
トリエントの公会議は三回行なわれているが、議事内容は十八年間継続しており、教皇の主導権において開催された。
プロテスタントも出席したが、多数で押しまくられ、教義上なんの歩みよりも見られなかった。
皇帝カール五世はこのありさまに絶望して一五五五年アウクスブルクの宗教和議(個人ではなく、諸侯にルター主義信仰を認めた)を、教皇に相談せずに結ばせてしまったのである。
トリエントの第三回会議は普遍的(カトリック)な性格を失ったまま、一五六二年開催され、翌年まったく保守的なカトリックの教義と、新しい禁書目録や教義回答書の制定、宗教裁判の推進をきめて散会した。
ヒューマニストの研究の蓄積によって、古いラテン語聖書には多くの問題が生じていたが、それも無視された。
国土回復運動以来強力だったスペインの教会からの影響も見過ごせない。
会議の結果できあがった結論の効果には、問題もあった。
フランス王もスペイン王も、条件づきでしか、トリエントの決議をみとめなかったからである。
対抗宗教改革の大きな成功は、むしろ中南米とアジアへの布教にあった。
それは宗教改革以前に開始されており、とくにルターが出てこなくても、大航海時代のことだから成功したにきまっている……とはいえるだろう。
しかしカトリックの失地回復という焦りが、大航海時代に大きな影を落としていることもまた否定できないのである。