『東洋の古典文明 世界の歴史3』社会思想社、1974年
9 富国と強兵
6 伸びて屈する
范雎(はんしょ)は宰相の地位につくと、かつて自分を引きたててくれた王稽や、鄭安平を王に推挙し、それぞれ要職につけた。
また自家の財宝を散じ、困窮していたころの恩にむくいた。
一飯の徳にもかならず償(つぐな)い、睚眦(がいさい)の怨み(ちょっと、睨まれたほどの怨み)にもかならず報(むく)いたという。
さて長平の大勝の後、趙も韓も、さらに秦軍が大挙してよせることをおそれ、しきりと工作をこころみて、范雎(はんしょう)と白起との離間をはかった。
これには、さしもの范雎も乗せられて、白起の声望をねたむにいたる。
白起もまた、范雎のことを、こころよく思わなくなった。
あくる年の九月、秦はまた兵を発して、趙の都の邯鄲(かんたん)を攻めた。
いくさは長びいて、年をこした。昭襄王は、白起の出馬を命じたが、白起は辞退していった。
「邯鄲は攻めるに容易ならず、しかも列国の救援は日を追うて到ろうとしております。遠く山河をこえて他国の都をほふろうとするとき、趙人が内から応じ、列国が外から攻めれば、秦軍の敗れることは必定(ひつじょう)でありましょう」。
白起は、病気と称して引きこもった。秋にいたって楚は数十万の兵を発し、趙をたすけた。
秦軍は多大の損傷をうけた。そこで白起は「私の言うことを用いなかったが、今にしてどうか」と人に語った。
これが昭襄王の耳にたっした。王は激怒し、あくまでも白起を従軍させようとしたが、白起はどうしても立たなかった。
ついに昭襄王は、白起の官職をけずり、流罪に処した。
王の厳命によって、白起は都を離れること十里、そこに王からの使者が追いついた。
白起に剣をたまわり、自害を命ずるというのである。白起は剣を引きよせ、首にあてていった。
「いかなる罪を天におかしたとて、かかることになったというのか」。
やや、しばらくして、また言った。
「わしは、もとより死ぬべきなのだ。長平の戦(たたかい)に、趙兵の降る者は数十万人、それをわしは心なくも、ことごとく穴埋めにした。このことだけでも、わしは死に値する」。
ついに白起は自害して果てた。昭襄王の五十年(前二五七)十一月のことであった。
ここにおいて范雎は、鄭安平を推挙して将軍とし、趙を討たせた。
しかし逆に趙軍のために包囲せられ、鄭安平は二万の兵もろとも、趙に投降してしまった。
秦の法律では、推挙された者に不都合があれば、これを推挙した者も同罪となる。
だから鄭安平のことでは、范誰も重い罰をうけねばならないわけであった。
それでも昭襄王は雎を信任して、責任を問わなかった。
二年の後、さきに知事となっていた王稽も、他国と内通したことが発覚して、死刑に処せられた。
ために范雎は日ましに憂鬱(ゆううつ)となっていった。
こうしたときに乗りこんできたのが、燕の人たる蔡沢(さいたく)であった。
天下の俊秀、好弁の智者というふれこみである。宰相の位をねらっているともいった。
しかし范雎はおどろかない。かえって蔡沢を召し、その意見をきいた。ここぞとばかり蔡沢は弁じ立てた。
いったい人が功を立てようとするとき、身名(しんめい)の全(まった)きを期さぬことがあろうか。
身と名と、ともに全きは上である。名は大なるをえても身の死するものは、その次である。名が辱(はずか)しめられて身の全きものは、下である。かの商鞅(しょうおう)も、呉起も、大夫の種(しょう)も、人臣として忠をつくし、功を立て
たにもかかわらず、最後を全うすることはできなかった。
いずれも功の成って後、その地位を去らず、ためにわざわいを受けるにいたった。
これ、いわゆる「伸びて屈する能(あた)わず、往きて返る能わず」というものである。
この道理を知ったからこそ、范蠡(はんれい)は世をさけ、陶朱公として長らえたではないか。
いま、秦の欲望はみたされ、君(范雎)の功業はきわまった。
このときにおよんで、どうして君は宰相の任を辞し、賢者にゆずって、しりぞかないのか。
説き去り、説き来り、これには范雎もふかく感ずるところがあった。謝して蔡沢のすすめにしたがい、いさぎよく宰相の地位をしりぞいた。後任には、蔡沢を推挙したのである。
昭襄王もまた、蔡沢を任用して、その後の発展にやくだてた。
こののち蔡沢が、つぎの孝文王から荘襄王につかえ、さらに始皇帝にもつかえて、秦のためにつくす。
燕の国の使者としておもむき、太子の丹を人質にいれさせたのも、ほかならぬ蔡沢のはたらきであった。
9 富国と強兵
6 伸びて屈する
范雎(はんしょ)は宰相の地位につくと、かつて自分を引きたててくれた王稽や、鄭安平を王に推挙し、それぞれ要職につけた。
また自家の財宝を散じ、困窮していたころの恩にむくいた。
一飯の徳にもかならず償(つぐな)い、睚眦(がいさい)の怨み(ちょっと、睨まれたほどの怨み)にもかならず報(むく)いたという。
さて長平の大勝の後、趙も韓も、さらに秦軍が大挙してよせることをおそれ、しきりと工作をこころみて、范雎(はんしょう)と白起との離間をはかった。
これには、さしもの范雎も乗せられて、白起の声望をねたむにいたる。
白起もまた、范雎のことを、こころよく思わなくなった。
あくる年の九月、秦はまた兵を発して、趙の都の邯鄲(かんたん)を攻めた。
いくさは長びいて、年をこした。昭襄王は、白起の出馬を命じたが、白起は辞退していった。
「邯鄲は攻めるに容易ならず、しかも列国の救援は日を追うて到ろうとしております。遠く山河をこえて他国の都をほふろうとするとき、趙人が内から応じ、列国が外から攻めれば、秦軍の敗れることは必定(ひつじょう)でありましょう」。
白起は、病気と称して引きこもった。秋にいたって楚は数十万の兵を発し、趙をたすけた。
秦軍は多大の損傷をうけた。そこで白起は「私の言うことを用いなかったが、今にしてどうか」と人に語った。
これが昭襄王の耳にたっした。王は激怒し、あくまでも白起を従軍させようとしたが、白起はどうしても立たなかった。
ついに昭襄王は、白起の官職をけずり、流罪に処した。
王の厳命によって、白起は都を離れること十里、そこに王からの使者が追いついた。
白起に剣をたまわり、自害を命ずるというのである。白起は剣を引きよせ、首にあてていった。
「いかなる罪を天におかしたとて、かかることになったというのか」。
やや、しばらくして、また言った。
「わしは、もとより死ぬべきなのだ。長平の戦(たたかい)に、趙兵の降る者は数十万人、それをわしは心なくも、ことごとく穴埋めにした。このことだけでも、わしは死に値する」。
ついに白起は自害して果てた。昭襄王の五十年(前二五七)十一月のことであった。
ここにおいて范雎は、鄭安平を推挙して将軍とし、趙を討たせた。
しかし逆に趙軍のために包囲せられ、鄭安平は二万の兵もろとも、趙に投降してしまった。
秦の法律では、推挙された者に不都合があれば、これを推挙した者も同罪となる。
だから鄭安平のことでは、范誰も重い罰をうけねばならないわけであった。
それでも昭襄王は雎を信任して、責任を問わなかった。
二年の後、さきに知事となっていた王稽も、他国と内通したことが発覚して、死刑に処せられた。
ために范雎は日ましに憂鬱(ゆううつ)となっていった。
こうしたときに乗りこんできたのが、燕の人たる蔡沢(さいたく)であった。
天下の俊秀、好弁の智者というふれこみである。宰相の位をねらっているともいった。
しかし范雎はおどろかない。かえって蔡沢を召し、その意見をきいた。ここぞとばかり蔡沢は弁じ立てた。
いったい人が功を立てようとするとき、身名(しんめい)の全(まった)きを期さぬことがあろうか。
身と名と、ともに全きは上である。名は大なるをえても身の死するものは、その次である。名が辱(はずか)しめられて身の全きものは、下である。かの商鞅(しょうおう)も、呉起も、大夫の種(しょう)も、人臣として忠をつくし、功を立て
たにもかかわらず、最後を全うすることはできなかった。
いずれも功の成って後、その地位を去らず、ためにわざわいを受けるにいたった。
これ、いわゆる「伸びて屈する能(あた)わず、往きて返る能わず」というものである。
この道理を知ったからこそ、范蠡(はんれい)は世をさけ、陶朱公として長らえたではないか。
いま、秦の欲望はみたされ、君(范雎)の功業はきわまった。
このときにおよんで、どうして君は宰相の任を辞し、賢者にゆずって、しりぞかないのか。
説き去り、説き来り、これには范雎もふかく感ずるところがあった。謝して蔡沢のすすめにしたがい、いさぎよく宰相の地位をしりぞいた。後任には、蔡沢を推挙したのである。
昭襄王もまた、蔡沢を任用して、その後の発展にやくだてた。
こののち蔡沢が、つぎの孝文王から荘襄王につかえ、さらに始皇帝にもつかえて、秦のためにつくす。
燕の国の使者としておもむき、太子の丹を人質にいれさせたのも、ほかならぬ蔡沢のはたらきであった。