『六朝と隋唐帝国 世界の歴史4』社会思想社、1974年
16 新羅(しらぎ)と渤海(ぼっかい)
2 朝鮮半島の三国
新羅(しらぎ)が、半島の東南部に建国したのは、四世紀の前半であった。同じ頃、西南部には百済(くだら)が建国した。
それまで半島南部の地には、たくさんの小国が分立し、東と西と南で、それぞれグループをつくり、辰韓・馬韓および弁韓(または弁辰)と呼ばれていた。
新羅や百済はこれらの諸小国を統一して、国をつくったものである。
北方の平壌には、漢の時代から楽浪軍がおかれて、半島の支配にあたった。
つぎの魏(ぎ)の時代(三世紀)も、同様である。
楽浪郡の南部、いまのソウルの近くには、あらたに帯方郡が設けられた。その支配と統制は、半島の南端にまでおよんだ。
しかるに四世紀になると、魏のあとをついだ晋は、内乱にくわえて外圧になやまされた。
北や西から、いわゆる五胡が侵入してきたのであった。
もはや東方をかえりみる余裕もない。
そこで頭をもたげたのが、高句麗(こうくり)であった。
いまや高句麗は、鴨緑江の流域から南下するいきおいをしめす。
ついに三一三年には、楽浪郡をほろぼしてしまった。
それから三年後に、晋の帝国もほろんだ。
高句麗は、東北地方(満州)の東部から半島北部にまたがる大国となった。こうした形勢に乗じて、新羅も百済も建国したのである。
しかも半島には、もうひとつの勢力が大きくのしかかった。すなわち日本の勢力である。四世紀の後半におよんで、日本は半島に出兵し、高句麗の軍と交戦した。
やがて高句麗に好太王(広開土王)が立つや、半島を北上した日本軍は、高句麗のために大敗をこうむる。
しかし、この間の出兵において、日本は南部に地盤をきずいた。
百済も、新羅も、日本に朝貢するようになった。
もっとも百済や新羅は、日本にだけ朝貢したわけではない。
中国の王朝に対しても、早くから朝貢していた。いわば二重の通貢であった。
高句麗にしても、中国が南北朝にわかれると(五世紀以後)、その両朝に通貢した。
おりから日本は、南朝に通貢している。
ところで南方においては、新羅の国力がしだいに強くなり、百済を圧迫した。
日本は、百済とむすんで、新羅の進出に対抗したが、じりじりと押された。
そして六世紀のなかばすぎ(五六二)には、日本も半島の経営から、まったく手をひくことになったのである。
それでも日本と新羅との国交が、完全にとだえたわけではない。
そののちも新羅は、日本に対して朝貢の使者をおくっていた。
日本にとって、依然として新羅はむかしながらの属国と考えられ、朝貢してくるべき国なのであった。
やがて六世紀の末をむかえると、大陸の情勢は大きくかわった。
隋(ずい)が中国を統一したのである(五八九)。そして隋は高句麗の遠征をおこなった。
文帝と、つぎの煬帝(ようだい)の二代にわたって、隋の大軍は陸海から高句麗を攻めた。
しかし遠征は失敗して、それが隋の帝国のいのちとりとなった。
七世紀のはじめ、隋にかわって、唐が建国する(六一八)。
16 新羅(しらぎ)と渤海(ぼっかい)
2 朝鮮半島の三国
新羅(しらぎ)が、半島の東南部に建国したのは、四世紀の前半であった。同じ頃、西南部には百済(くだら)が建国した。
それまで半島南部の地には、たくさんの小国が分立し、東と西と南で、それぞれグループをつくり、辰韓・馬韓および弁韓(または弁辰)と呼ばれていた。
新羅や百済はこれらの諸小国を統一して、国をつくったものである。
北方の平壌には、漢の時代から楽浪軍がおかれて、半島の支配にあたった。
つぎの魏(ぎ)の時代(三世紀)も、同様である。
楽浪郡の南部、いまのソウルの近くには、あらたに帯方郡が設けられた。その支配と統制は、半島の南端にまでおよんだ。
しかるに四世紀になると、魏のあとをついだ晋は、内乱にくわえて外圧になやまされた。
北や西から、いわゆる五胡が侵入してきたのであった。
もはや東方をかえりみる余裕もない。
そこで頭をもたげたのが、高句麗(こうくり)であった。
いまや高句麗は、鴨緑江の流域から南下するいきおいをしめす。
ついに三一三年には、楽浪郡をほろぼしてしまった。
それから三年後に、晋の帝国もほろんだ。
高句麗は、東北地方(満州)の東部から半島北部にまたがる大国となった。こうした形勢に乗じて、新羅も百済も建国したのである。
しかも半島には、もうひとつの勢力が大きくのしかかった。すなわち日本の勢力である。四世紀の後半におよんで、日本は半島に出兵し、高句麗の軍と交戦した。
やがて高句麗に好太王(広開土王)が立つや、半島を北上した日本軍は、高句麗のために大敗をこうむる。
しかし、この間の出兵において、日本は南部に地盤をきずいた。
百済も、新羅も、日本に朝貢するようになった。
もっとも百済や新羅は、日本にだけ朝貢したわけではない。
中国の王朝に対しても、早くから朝貢していた。いわば二重の通貢であった。
高句麗にしても、中国が南北朝にわかれると(五世紀以後)、その両朝に通貢した。
おりから日本は、南朝に通貢している。
ところで南方においては、新羅の国力がしだいに強くなり、百済を圧迫した。
日本は、百済とむすんで、新羅の進出に対抗したが、じりじりと押された。
そして六世紀のなかばすぎ(五六二)には、日本も半島の経営から、まったく手をひくことになったのである。
それでも日本と新羅との国交が、完全にとだえたわけではない。
そののちも新羅は、日本に対して朝貢の使者をおくっていた。
日本にとって、依然として新羅はむかしながらの属国と考えられ、朝貢してくるべき国なのであった。
やがて六世紀の末をむかえると、大陸の情勢は大きくかわった。
隋(ずい)が中国を統一したのである(五八九)。そして隋は高句麗の遠征をおこなった。
文帝と、つぎの煬帝(ようだい)の二代にわたって、隋の大軍は陸海から高句麗を攻めた。
しかし遠征は失敗して、それが隋の帝国のいのちとりとなった。
七世紀のはじめ、隋にかわって、唐が建国する(六一八)。