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8-3-4 アフリカに達す

2023-12-17 07:53:02 | 世界史

『アジア専制帝国 世界の歴史8』社会思想社、1974年
3 鄭和の南海経略
4 アフリカに達す

 永楽十年(一四二一)十一月になると、鄭和はまた南海への出征を命じられた。
 このたびは、インド以西の諸国へもおもむくべきことが、しめされている。
 遠征の規模は、いっそう拡大されたわけであった。
 準備をととのえ、信風(モンスーン)を待つこと、ほぼ一年、永楽十一年十一月に、艦隊は出航した。
 これまでと同じような航路をとって、カリカットに達し、さらに西へ航して、ペルシア湾頭のオルムズをおとずれた。
 そこはペルシアの門戸であり、そのころは東西貿易の要衝として、もっとも栄えた港であった。
 その帰路、鄭和の艦隊がスマトラに寄ったとき、また一つの事件にぶつかった。
 なお、ここでいうスマトラは、いまのスマトラ全島のことではない。スマトラ島には、いくつもの勢力が割拠しており、そのうち東北端、いまのアチェに拠った国が、すなわちスマトラ国であった。
 さてスマトラ国王は、その名をザイヌル・アービディーンといった。
 永楽三年(一四〇三)以来、明に朝貢し、国王に封ぜられている。
 ところが、スカンダルという者があらわれ、やはり王と称して勢力をあらそうに至った。
 よってザイヌル王は、明朝に事情をうったえ、救援をもとめた。
 鄭和は、このザイヌル王をたすけるために、スマトラに寄ったのである。
 スカンダルは大兵をあつめて、明軍をむかえた。
 これを鄭和は打ちやぶり、鳥の西北端にあるランブリ国まで追いつめて捕え、妻子ともども捕虜として連れかえった。
 スマトラにおける内乱もこうして平定されたのである。
 鄭和は永楽十三年(一四一五)七月に帰国した。
 南海の多くの国は、このたびも朝貢の使者を同行させている。


 ところで、この第四次の遠征においては、途中で鄭和の本隊とわかれ、はるかにアフリカの東岸にまで達した一隊があった。分遣の艦隊は、スマトラの付近でわかれた。
 そして鄭和の本隊よりは一年以上も遅れ、永楽十四年の十一月に帰着した。
 かれらはインド洋をまっすぐ西へ航して、マルディーブ諸島をすぎ、アフリカ東岸のモガディショに達した。
 そこから南下し、ブラワをへて、マリンディにおもむく。
 すでにケニアの地であった。これよりは北に転じ、アラビア南岸のアデンから、ドファールをへて、オルムズに寄る。
 そこからはカリカットをへて帰ったのであった。

 中国の艦隊がアフリカの沿岸に達したことなどは、まさしく空前の壮挙である。
 アラビアやアフリカの諸国が、朝貢してきたということも、はじめての盛事である。
 永楽帝の遠大なる計画は、こうしてみごとな実をむすんだ。
 ただし、かれらがアフリカにまで達することができたことについては、イスラム商人の協力があったに違いない。
 イスラムの船乗りたちこそ、中国からアフリカまで、インド洋をまたにかけて往来していたのである。
 このときより八十年ほどのちに、バスコ・ダ・ガマがアフリカの南端をまわってカリカットに達するが、アフリカ東岸からインドまでの航路は、イスラム商人のみちびきによったのであった。
 ところで分遣隊が帰還したとき、アフリカ・アラビアをふくめて、十八国からの使者をともなっていた。
 これらの使者を、それぞれの本国へおくるため、永楽十四年(一四一六)十二月、またも鄭和は出使を命じられる。
 あくる十五年(一四一七)の秋、第五次の遠征隊は出航した。
 このたびも鄭和はオルムズまでおもむいたようで、永楽十七年(一四一九)七月に帰国した。
 また途中からアフリカ、アラビアにむかう艦隊を分遣したことも、前回と同様であった。
 そうして分遣隊は、マルディーブ諸島からアフリカ東岸へ、北上してアラビアへというコースをまわって、永楽十八年に帰国したのである。
 これら二回の遠征(第四次、第五次)において、インド洋に面する主要な港は、ことごとく巡回された。
 南海についての中国人の知見は、いちじるしく拡大した。
 それは同時に、明朝の貿易圏が、遠くアラビアやアフリカにまで及んだことを、意味するものであった。
 南海の果ての国からは、それまで中国人が見たことのない珍獣を貢献(こうけん=貢ぎ物)してきた。
 たとえば、オルムズから献上されたものに、獅子(ライオン)や金銭豹(金の斑点をつけたヒョウ)や大西馬(アラビア馬)であった。
 アデンから献上ざれたものには、長角馬哈獣(ちょうかくまはじゅう)とよばれたものがあった。
 これは長い角をつけたマハ、すなわちオオカモシカのことである。
 アフリカ原産であった。
 また注目すべきものに麒麟(きりん)があった。
 これはジラフのことである。なぜ、ジラフのことを麒麟とよんだのか。
 ソマリアにおけるジラフの呼び名が“ギリ”であった。
 それに加えて、新来の珍獣たるジラフのからだつきが想像上の霊獣たる麒麟と以ているところが多かった。
 古典によれば、麒麟は皇帝の徳が特別に高く、卓越しているとき(天下泰平のとき)にのみ出現するという。
 つまり瑞祥(ずいしょう)をしめす獣であった。
 そこで麒麟とよばれたジラフが献上されると、ひと騒ぎがもちあがる。
 帝徳をたたえる詩や文がつくられ、皇帝にささげられた。
 永楽帝も、はじめは祝辞をうけつけなかったものの、しまいにはみずから王宮の門まで出むき、いかめしく威儀をととのえて、このアフリカ産の瑞獣(ずいじゅう)をうけとったのであった。
 そのほか、アフリカのモガディショ国からは、獅子ならびに花福禄という獣が献上された。
 花福禄というのは、ゼブラ(シマウマ)である。
 ブラワ国からは、一日千里をゆくという駱駝(らくだ)と駝鳥(だちょう)とを献じていた。
 いずれも「山に蔵(かく)れ海に隠れる霊物、砂に沈み陸に棲(す)む偉宝」とよばれるにふさわしいものであった。





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