勿論、「聖母の被昇天」とあるのですから、私たちカトリック信者は、聖母が霊肉共に天国に上げられたとは普通に想像がつくはずです。だけでなく、これは、ピオ12世によって教義宣言されていたと思います。
が、亡くなってから復活して体ごと天に上げられたのか、亡くなる前に上げられたのか、など、なお議論の余地はありましょう。これは、そのような聖書の間隙を埋める言い伝えです。
が、亡くなってから復活して体ごと天に上げられたのか、亡くなる前に上げられたのか、など、なお議論の余地はありましょう。これは、そのような聖書の間隙を埋める言い伝えです。
カトリック教会の暦には、聖母の祝日がたくさんあります。でも、そのなかでもとりわけ、最も喜ばしく、また、もっとも親しまれているのは、聖母被昇天の大祝日(8月15日)です。この日に記念されることは、主に二つあります。
①聖母マリア様の実に清らかなご臨終
②聖母の、天主におけるたぐいない御栄え
です。
聖母が、聖霊降臨の日(主の復活後、40日目に主は昇天された。そのさらに9日後、聖霊降臨がありました。)に、御弟子らとともにおられたとき、聖霊とその賜物をお受けになったことは聖書の使徒行録にあります。でも、その後のことについては、何も聖書にしるされていません。
これは、それからの聖母マリア様の御生涯が、個人的な御生活であって、直接わたしたち人類の救霊に関係がなかったためであろうと考えられています。でも、伝説には、その聖母の晩年の話もいろいろと残っています。
それによると、聖母は、聖霊降臨後まもなく、小アジアのエフェゾ市に退き、十字架上のイエズス様の御遺言どおり、使徒聖ヨハネのねんごろな扶養を受けながら、なおも徳を積み、天上において最愛の御子と再会する喜びの日をひたすら待ちつつ余生を送られたということです。ただ、そのご臨終の場所も時間も伝えられていないのは、本当に残念なことであるといわなければなりません。
一般的に、人間の死は、聖パウロも教えている通り、罪の罰です。(ローマ書5の12)ところが、聖母には自罪はもちろん、原罪のけがれすら、ありませんでした。ですから、理屈からすると、聖母は決して死ぬような理由はありませんでした。でも、やはり逝去されたということは、まったく御子イエズス・キリストの御死去と同様、ただ、人々を救い、その霊魂を天国に導くためにほかならないのです。
ですから、聖母のご逝去は、一般的にみあれる、疾病・老衰など、罪の罰である苦しみが少しもありませんでした。
聖ベルナルドが言っています。「天国への渇望の激しさに、聖母の聖い霊魂が清い御肉体を離れた」にすぎませんでした。そして、主イエズス・キリストが復活・昇天されたように、聖母マリア様も御死去後まもなくよみがえり、その御霊魂御肉体もろとも天国にあげられなさいました。このことは、カトリック教会の初代から、広く人々に信じられてきたところでした。
それに、全能の天主がご自分をその胎内に宿してくださった御母に対し、あらかじめ原罪のけがれさえ取り除くほど有難い配慮をなさったとするならば、御死去の後も、その御肉体を穢れのしるしのような腐敗から救われたのは当然なことです。
ですから、聖母マリア様が死後その御肉体も御霊魂とともに天国にあげられたということは、聖母の無原罪などと同じように、天主の聖母の特権で、1950年11月1日、諸聖人の大祝日に教皇ピオ12世が、全世界から集まった多くの司教、司祭や平信者の前で、信仰箇条として定められたのです。
カトリック教会は、聖母マリアのこの特権を記念するため、早くから被昇天の大祝日を設け、聖母の被昇天に対する典礼を定めました。また、カトリックの名だたる芸術家たちは、聖母の被昇天を題材として詩文、絵画、彫刻に数々の傑作を残しました。一般のキリスト教信徒は、これに関してさまざまな伝説を残しました。次の話は、そのもっとも古い一つであって、ニケフォロ・カリスチの歴史にしるされているものです。
東ローマ帝国のマルチアノの皇后ブルケリアは、かねてから、一つの聖堂を建立し、それを聖母にささげ、かつ、その御なきがらをそこに安置したいという望みを有しておられました。それで、皇帝は、カルケドンで公会議を招集されたときに、エルザレムの司教ユヴェナリスに向かい、聖母マリアの御なきがらの所在地を尋ねられたところ、司教は答えました
「聖母の御死去については、聖書に何事もしるしてございません。しかし、古い確かな伝説によれば、聖母のご臨終には、使徒たちがみな、布教先から馳せ集まり、最後のお別れを申し上げ、御息が絶えてからは祈りに聖歌に御徳を賛美しつつ、丁重に、御なきがらを、とある巌穴に葬りました。ところが、それから3日を経て、唯一人、遅れて到着した使徒聖トマに、聖母の御死顔を見せるために御墓をひらきますと、不思議にも御なきがらは見当たらず、御なきがらを包んであった布は、たたんで傍らに置かれ、あたりには、何ともいえなかぐわしい香がただよっていました。使徒たちはこれを見ると大いに喜び、「主イエズス・キリストは、御母を復活させ、清い御体もともに、天国にお迎えなさった」と、叫んだということでございます。」
と語ったそうです。
同じように天国に昇られたにしても、主キリストの場合は、御昇天といい、聖母マリアの場合は被昇天と呼びます。
これは、主は、天主の全能をあらわすために御自ら天にのぼられたのに対し、御母は人間であるからそういう力はなく、ただ、主の御力によって天にあげられたという相違を示すためです。
聖母の被昇天は、読者も御存じのとおり、わが日本カトリック教会において主日同様守るべき4大祝日の一つとされていますが、この日は、実際、我が国にとって別な意味でも重大な日でもあります。それというのは、日本に渡来した最初の宣教師である聖フランシスコ・ザビエルが、鹿児島に上陸し最初のミサをささげたのが、8月15日。ちょうど聖母被昇天の大祝日にあたっていたからです。
ですから、わたしたちも、この日を機会として、更に聖母への崇敬と信頼とを深め、絶えず、日本カトリック教会の上に聖母の厚い御保護を願わなければなりません
①聖母マリア様の実に清らかなご臨終
②聖母の、天主におけるたぐいない御栄え
です。
聖母が、聖霊降臨の日(主の復活後、40日目に主は昇天された。そのさらに9日後、聖霊降臨がありました。)に、御弟子らとともにおられたとき、聖霊とその賜物をお受けになったことは聖書の使徒行録にあります。でも、その後のことについては、何も聖書にしるされていません。
これは、それからの聖母マリア様の御生涯が、個人的な御生活であって、直接わたしたち人類の救霊に関係がなかったためであろうと考えられています。でも、伝説には、その聖母の晩年の話もいろいろと残っています。
それによると、聖母は、聖霊降臨後まもなく、小アジアのエフェゾ市に退き、十字架上のイエズス様の御遺言どおり、使徒聖ヨハネのねんごろな扶養を受けながら、なおも徳を積み、天上において最愛の御子と再会する喜びの日をひたすら待ちつつ余生を送られたということです。ただ、そのご臨終の場所も時間も伝えられていないのは、本当に残念なことであるといわなければなりません。
一般的に、人間の死は、聖パウロも教えている通り、罪の罰です。(ローマ書5の12)ところが、聖母には自罪はもちろん、原罪のけがれすら、ありませんでした。ですから、理屈からすると、聖母は決して死ぬような理由はありませんでした。でも、やはり逝去されたということは、まったく御子イエズス・キリストの御死去と同様、ただ、人々を救い、その霊魂を天国に導くためにほかならないのです。
ですから、聖母のご逝去は、一般的にみあれる、疾病・老衰など、罪の罰である苦しみが少しもありませんでした。
聖ベルナルドが言っています。「天国への渇望の激しさに、聖母の聖い霊魂が清い御肉体を離れた」にすぎませんでした。そして、主イエズス・キリストが復活・昇天されたように、聖母マリア様も御死去後まもなくよみがえり、その御霊魂御肉体もろとも天国にあげられなさいました。このことは、カトリック教会の初代から、広く人々に信じられてきたところでした。
それに、全能の天主がご自分をその胎内に宿してくださった御母に対し、あらかじめ原罪のけがれさえ取り除くほど有難い配慮をなさったとするならば、御死去の後も、その御肉体を穢れのしるしのような腐敗から救われたのは当然なことです。
ですから、聖母マリア様が死後その御肉体も御霊魂とともに天国にあげられたということは、聖母の無原罪などと同じように、天主の聖母の特権で、1950年11月1日、諸聖人の大祝日に教皇ピオ12世が、全世界から集まった多くの司教、司祭や平信者の前で、信仰箇条として定められたのです。
カトリック教会は、聖母マリアのこの特権を記念するため、早くから被昇天の大祝日を設け、聖母の被昇天に対する典礼を定めました。また、カトリックの名だたる芸術家たちは、聖母の被昇天を題材として詩文、絵画、彫刻に数々の傑作を残しました。一般のキリスト教信徒は、これに関してさまざまな伝説を残しました。次の話は、そのもっとも古い一つであって、ニケフォロ・カリスチの歴史にしるされているものです。
東ローマ帝国のマルチアノの皇后ブルケリアは、かねてから、一つの聖堂を建立し、それを聖母にささげ、かつ、その御なきがらをそこに安置したいという望みを有しておられました。それで、皇帝は、カルケドンで公会議を招集されたときに、エルザレムの司教ユヴェナリスに向かい、聖母マリアの御なきがらの所在地を尋ねられたところ、司教は答えました
「聖母の御死去については、聖書に何事もしるしてございません。しかし、古い確かな伝説によれば、聖母のご臨終には、使徒たちがみな、布教先から馳せ集まり、最後のお別れを申し上げ、御息が絶えてからは祈りに聖歌に御徳を賛美しつつ、丁重に、御なきがらを、とある巌穴に葬りました。ところが、それから3日を経て、唯一人、遅れて到着した使徒聖トマに、聖母の御死顔を見せるために御墓をひらきますと、不思議にも御なきがらは見当たらず、御なきがらを包んであった布は、たたんで傍らに置かれ、あたりには、何ともいえなかぐわしい香がただよっていました。使徒たちはこれを見ると大いに喜び、「主イエズス・キリストは、御母を復活させ、清い御体もともに、天国にお迎えなさった」と、叫んだということでございます。」
と語ったそうです。
同じように天国に昇られたにしても、主キリストの場合は、御昇天といい、聖母マリアの場合は被昇天と呼びます。
これは、主は、天主の全能をあらわすために御自ら天にのぼられたのに対し、御母は人間であるからそういう力はなく、ただ、主の御力によって天にあげられたという相違を示すためです。
聖母の被昇天は、読者も御存じのとおり、わが日本カトリック教会において主日同様守るべき4大祝日の一つとされていますが、この日は、実際、我が国にとって別な意味でも重大な日でもあります。それというのは、日本に渡来した最初の宣教師である聖フランシスコ・ザビエルが、鹿児島に上陸し最初のミサをささげたのが、8月15日。ちょうど聖母被昇天の大祝日にあたっていたからです。
ですから、わたしたちも、この日を機会として、更に聖母への崇敬と信頼とを深め、絶えず、日本カトリック教会の上に聖母の厚い御保護を願わなければなりません