『文明のあけぼの 世界の歴史1』社会思想社、1974年
11 巨人の積み石遊び――巨石記念物――
2 ストーンヘンジの謎
しかし、もちろんストーンヘンジは巨人たちが遊んだなごりではない。
それでは何であったのだろうか。どういう目的のために造られたものであったのだろうか。
そしてどのようにしてそれらは造られたものだったろうか。ストーンヘンジには、そういうたくさんの謎がある。
アリニュマンを、石の列のあいだから星の運行を見て、月日をきめる一種の観象台的なものと考えた学者もあった。
しかし、それにしてはあまりにたくさんの石が立てられすぎていて、不要なものが多すぎ、「暦」あるいは「天文」に関係のあるものと、簡単に断定するわけにはいかない。
イギリスのストーンヘンジも「暦」と関係があると、説く人がある。
そういう説がでるのも理由があることなのである。
それは、夏至(げし)の日の出の方向にむけて、ストーンヘンジがつくられているからである。環状列石の外の参道のところに、一本石が立っていて、それは「天文石(ヒールストーン)」とよばれている。
六月二十一日の夏至の朝、ストーンヘンジの中央にある「祭壇石」から、この「天文石」を見ると、ちょうど石の頂のところから太陽が登り、石の頂の影が祭壇石にぶつかるといわれている。
今では夏至(げし)の明け方には大ぜいの人々がこれを見るために集まる。しかし、じつは、一般に信じられているこの説は必ずしも正確ではない。太陽は「天文石」の頂でなく、すこし左にふれたところから登るのである。
長い年月がたつあいだにそのような偏向ができ、昔は石の真上に登ったかというと、学者の計算では、ストーンヘンジができたころには今日より、さらに左のほうから登ったはずだといわれる。
このように多少の偏向はあるが、ストーンヘンジが夏至の日の出の方向と、まるで無縁につくられたものだとすることはできない。
しかし、それだからといって、この建造物が太陽神崇拝のための一種の神殿だとか、暦の役割をするものだとか、簡単にきめることは困難である。
ストーンヘンジのもっているこういう方向性から、いろいろの人が想像をたくましくして、いろいろな説をだした。
ステュークリーという人は一七二四年に、これはエジプトから逃げてきた神官たちのつくったものであるという説をだした。
ストーンヘンジを宗教的な場所とみる説は古くからあり、建築家のインニゴ・ジョーンズは、一六二〇年に、これをローマ神殿の一つだという説をだし、ジョン・オーブリーは、一六六五年に、これをドリュイド教の聖所だという説をだした。
ドリュイドというのは古代ケルト族の司祭で、妖術や予言などをおこなったという。
この説はかなり人々のあいだに広く信じられ、サークルの中央にある石を「祭壇石」と名づけたり、遺跡の入口に倒れている大石を「石」と名づけたのは、そのためだった。
しかしイギリスには紀元前二五〇年より前には、ドリュイド教徒はぜんぜんいなかった。
そしてストーンヘンジは紀元前一八〇〇年から一四○○年ころまでに建造されたもので、年代がぜんぜん合わず、オーブリー説は今日では権威がない。
十九世紀の学者たちは、太陽崇拝と関係のある宗教的な建造物だと説く者が多く、ファーガスンやピートリたちは、そう説いた。
しかし天文学者のロッキアーは、一九〇六年これを宗教的な遺跡ではなく、天文の観測所にすぎないと説いた。
シュペングラーは、この説に反対し、ふたたび太陽崇拝と関係あるものとした。
上述したようにドルメンは墓であることに、学者の説がほぽ一致しているが、メンヒルも墓の上や、墓の近くに立てられることが多い。
しかし、必ず近くに墓があるとはかぎらない。ストーンサークルも、環の中心に墓のあることが多い。
しかし、これも墓のない場合もあり、ストーンヘンジの場合には墓がない。
だが、こういうことから、ストーンヘンジを葬礼と関係があるところと考える学者もあり、古くは歴史家のウィリアム・カムデンが一五七五年に、そういう説を唱えた。
とにかくストーンヘンジの目的は、今日のところでは、詳細にわかっていず、いぜん謎ではあるが、宗教的な、それもおそらくは太陽崇拝となんらかの関係のある遺跡であると一般に信じられている。
一九五〇年から五四年にかけて、イギリスのストーンヘンジの科学的な発掘調査がおこなわれた。
そしてその結果、ストーンヘンジは紀元前一八〇〇年、一六五〇~一五〇〇、一五〇〇~一四〇〇年の三度にわたって改造され、この三期目にはまたさらに三度、改変の手が少しずつ加えられていることがわかった。
まず最初の紀元前一八〇〇年ころには、直径一〇〇メートルほどの円型の土手とその外をめぐる濠がつくられ、土手の内側には五十六の小穴の列が掘られた。
これはジョン・オーブリーという好古家が発見したため「オーブリーの穴」とよばれる。
近年この小穴は再発掘され、人骨の灰、骨製の針、磨製の石棒の先などが発見された。
こういう内容品はおそらくこの穴のところで何か宗教的な儀式がおこなわれたことを暗示している。
しかし墓ではなく、またこれらの穴には石や木の柱の立てられた形跡もまったくない。
つぎの第二期には、一本四トン以上もある青石(輝緑岩)の柱が八十本以上も、環の中央に二列に円をなして立てられた。そしてストーンヘンジからエヴォン川までつづく参道がつくられた。
第三期には砂岩の大きな柱が環状に立てられ、上にはまぐさ石が置かれた。
さらにこの環のなかに、鳥居状に積んだ石が五本、馬蹄(ばてい)型に並べられた。
そしてこれらの列石の外に小穴が二列掘られた。
おそらくそれには石柱が立てられたらしいが、今日では一本も残っていない。
こうしてストーンヘンジは紀元前一四〇〇年ころに完成した。
ストーンヘンジの付近には、ほかに種々の遺跡がある。
「カーサス」とよばれる三キロも長さのある土手に囲まれた細長いものがあるが、何に使われたものかぜんぜんわからない。
また種々の形をした古墳、第一期のストーンヘンジに似たアヴェペリーの遺跡そのほかがある。
しかしとくに興味深いのは、「ウッドヘンジ」である。
これは飛行機から空中写真をとるようになってから見つかったもので、写真をとると麦畑のなかに輪の形のものが写っていたのである。
その輪のところを掘ると、木の柱の跡が見つかった。これを「ウッドヘンジ」とよぶ。
ストーンヘンジの北東三キロほどのところにも「ウッドヘンジ」が見つかり、一九二八年に発掘された。
直径七〇メートルほどあり、土手と濠をめぐらした中に、六重の同心円の柱跡がある。おそらくドーナツ型の木造建築物が、そこにあったろうと想像されている。
これも入口は、夏至(げし)の日の出の方向をむいている。
これは、ストーンヘンジより古い遺跡で、はじめ木の「環状列柱」がつくられ、それがやがて石のものにかわっていったらしい。
このウッドヘンジでは、人身御供(ひとみごくう)にされたらしい頭蓋骨の割られた子供の死体が発見されている。
こういうことからも、おそらくストーンヘンジも何か宗教的なものと関係のある遺跡だと考えられる。
11 巨人の積み石遊び――巨石記念物――
2 ストーンヘンジの謎
しかし、もちろんストーンヘンジは巨人たちが遊んだなごりではない。
それでは何であったのだろうか。どういう目的のために造られたものであったのだろうか。
そしてどのようにしてそれらは造られたものだったろうか。ストーンヘンジには、そういうたくさんの謎がある。
アリニュマンを、石の列のあいだから星の運行を見て、月日をきめる一種の観象台的なものと考えた学者もあった。
しかし、それにしてはあまりにたくさんの石が立てられすぎていて、不要なものが多すぎ、「暦」あるいは「天文」に関係のあるものと、簡単に断定するわけにはいかない。
イギリスのストーンヘンジも「暦」と関係があると、説く人がある。
そういう説がでるのも理由があることなのである。
それは、夏至(げし)の日の出の方向にむけて、ストーンヘンジがつくられているからである。環状列石の外の参道のところに、一本石が立っていて、それは「天文石(ヒールストーン)」とよばれている。
六月二十一日の夏至の朝、ストーンヘンジの中央にある「祭壇石」から、この「天文石」を見ると、ちょうど石の頂のところから太陽が登り、石の頂の影が祭壇石にぶつかるといわれている。
今では夏至(げし)の明け方には大ぜいの人々がこれを見るために集まる。しかし、じつは、一般に信じられているこの説は必ずしも正確ではない。太陽は「天文石」の頂でなく、すこし左にふれたところから登るのである。
長い年月がたつあいだにそのような偏向ができ、昔は石の真上に登ったかというと、学者の計算では、ストーンヘンジができたころには今日より、さらに左のほうから登ったはずだといわれる。
このように多少の偏向はあるが、ストーンヘンジが夏至の日の出の方向と、まるで無縁につくられたものだとすることはできない。
しかし、それだからといって、この建造物が太陽神崇拝のための一種の神殿だとか、暦の役割をするものだとか、簡単にきめることは困難である。
ストーンヘンジのもっているこういう方向性から、いろいろの人が想像をたくましくして、いろいろな説をだした。
ステュークリーという人は一七二四年に、これはエジプトから逃げてきた神官たちのつくったものであるという説をだした。
ストーンヘンジを宗教的な場所とみる説は古くからあり、建築家のインニゴ・ジョーンズは、一六二〇年に、これをローマ神殿の一つだという説をだし、ジョン・オーブリーは、一六六五年に、これをドリュイド教の聖所だという説をだした。
ドリュイドというのは古代ケルト族の司祭で、妖術や予言などをおこなったという。
この説はかなり人々のあいだに広く信じられ、サークルの中央にある石を「祭壇石」と名づけたり、遺跡の入口に倒れている大石を「石」と名づけたのは、そのためだった。
しかしイギリスには紀元前二五〇年より前には、ドリュイド教徒はぜんぜんいなかった。
そしてストーンヘンジは紀元前一八〇〇年から一四○○年ころまでに建造されたもので、年代がぜんぜん合わず、オーブリー説は今日では権威がない。
十九世紀の学者たちは、太陽崇拝と関係のある宗教的な建造物だと説く者が多く、ファーガスンやピートリたちは、そう説いた。
しかし天文学者のロッキアーは、一九〇六年これを宗教的な遺跡ではなく、天文の観測所にすぎないと説いた。
シュペングラーは、この説に反対し、ふたたび太陽崇拝と関係あるものとした。
上述したようにドルメンは墓であることに、学者の説がほぽ一致しているが、メンヒルも墓の上や、墓の近くに立てられることが多い。
しかし、必ず近くに墓があるとはかぎらない。ストーンサークルも、環の中心に墓のあることが多い。
しかし、これも墓のない場合もあり、ストーンヘンジの場合には墓がない。
だが、こういうことから、ストーンヘンジを葬礼と関係があるところと考える学者もあり、古くは歴史家のウィリアム・カムデンが一五七五年に、そういう説を唱えた。
とにかくストーンヘンジの目的は、今日のところでは、詳細にわかっていず、いぜん謎ではあるが、宗教的な、それもおそらくは太陽崇拝となんらかの関係のある遺跡であると一般に信じられている。
一九五〇年から五四年にかけて、イギリスのストーンヘンジの科学的な発掘調査がおこなわれた。
そしてその結果、ストーンヘンジは紀元前一八〇〇年、一六五〇~一五〇〇、一五〇〇~一四〇〇年の三度にわたって改造され、この三期目にはまたさらに三度、改変の手が少しずつ加えられていることがわかった。
まず最初の紀元前一八〇〇年ころには、直径一〇〇メートルほどの円型の土手とその外をめぐる濠がつくられ、土手の内側には五十六の小穴の列が掘られた。
これはジョン・オーブリーという好古家が発見したため「オーブリーの穴」とよばれる。
近年この小穴は再発掘され、人骨の灰、骨製の針、磨製の石棒の先などが発見された。
こういう内容品はおそらくこの穴のところで何か宗教的な儀式がおこなわれたことを暗示している。
しかし墓ではなく、またこれらの穴には石や木の柱の立てられた形跡もまったくない。
つぎの第二期には、一本四トン以上もある青石(輝緑岩)の柱が八十本以上も、環の中央に二列に円をなして立てられた。そしてストーンヘンジからエヴォン川までつづく参道がつくられた。
第三期には砂岩の大きな柱が環状に立てられ、上にはまぐさ石が置かれた。
さらにこの環のなかに、鳥居状に積んだ石が五本、馬蹄(ばてい)型に並べられた。
そしてこれらの列石の外に小穴が二列掘られた。
おそらくそれには石柱が立てられたらしいが、今日では一本も残っていない。
こうしてストーンヘンジは紀元前一四〇〇年ころに完成した。
ストーンヘンジの付近には、ほかに種々の遺跡がある。
「カーサス」とよばれる三キロも長さのある土手に囲まれた細長いものがあるが、何に使われたものかぜんぜんわからない。
また種々の形をした古墳、第一期のストーンヘンジに似たアヴェペリーの遺跡そのほかがある。
しかしとくに興味深いのは、「ウッドヘンジ」である。
これは飛行機から空中写真をとるようになってから見つかったもので、写真をとると麦畑のなかに輪の形のものが写っていたのである。
その輪のところを掘ると、木の柱の跡が見つかった。これを「ウッドヘンジ」とよぶ。
ストーンヘンジの北東三キロほどのところにも「ウッドヘンジ」が見つかり、一九二八年に発掘された。
直径七〇メートルほどあり、土手と濠をめぐらした中に、六重の同心円の柱跡がある。おそらくドーナツ型の木造建築物が、そこにあったろうと想像されている。
これも入口は、夏至(げし)の日の出の方向をむいている。
これは、ストーンヘンジより古い遺跡で、はじめ木の「環状列柱」がつくられ、それがやがて石のものにかわっていったらしい。
このウッドヘンジでは、人身御供(ひとみごくう)にされたらしい頭蓋骨の割られた子供の死体が発見されている。
こういうことからも、おそらくストーンヘンジも何か宗教的なものと関係のある遺跡だと考えられる。