『絶対主義の盛衰 世界の歴史9』社会思想社、1974年
4 イギリスの王政復古から名誉革命へ
4 モンマス公の乱
一六八五年チャールズ二世が没し、カトリックの王弟がジェームズ二世としてあとをついだ。
即位後まもなく召集された議会は、トーリー党が優勢で、六一年以来のどの議会よりも宮廷に対して好意をもち、たとえばそれが承認した予算は、チャールズ二世の即位当時の約倍額であった。
ところが議会の会期中に、ジェームズの夢を破るような事件がおきた。それはチャールズの庶子、モンマス公の乱である。
彼は前述のようにシャフツベリーによって王位継承者にかつがれたこともあったが、このパトロンの死後、オランダで、おちぶれていた。
八五年六月、彼はアムステルダムの大商人の援助によって船を借り、百五十名ばかりの一隊をひきつれて、イギリス南西部に、上陸した。
しかしホイッグ党の貴族やジェントルマンは田舎の屋敷にこもって動かず、公のもとに集まったのは、サマセットやデボンなど南西部諸州、とくにサマセット州のターントンの毛織物業地帯の下層民約六千名であった。当時毛織物業は、アイルランドの低賃金と廉価羊毛の競争のため不況にあえいでいた。
ピューリタン弾圧立法によるピューリタンの苦痛も、反乱の一要因となった。彼らの目的は教皇派の王のみならず、イギリス国教会を廃止することであった。
しかし、モンマスの部下は烏合(うごう)の衆である。
指揮はなっておらず、武装は不完全、棒に大鎌をくくりつけて進軍する者も多かった。
反乱がおこった諸州の民兵や、正規軍は王に味方した。
ロンドン市、議会、都市、地方の役人やジェントルマン、さらに国の世論も、王と法とを支持する。モンマスの運命は決した。王軍に破れ、捕えられた彼は、王の前にひざまずいて涙とともに嘆願したがゆるされず、処刑された。三十六歳。
モンマスの部下のうち、数百名は兵士の手によって、また「血の裁判」で処刑され、八百名以上のものが奴隷としてバルバドスに売られた。このとき捕虜を奴隷として売る認可をもらったのは、宮廷の寵臣たちであった。
モンマスの反乱は、「旧イギリス最後の人民の反乱」といわれている。
ジェームズはこの反乱の深さにおどろき、常備軍を増強した。前王の大常備軍設置の計画が反対をうけたにもかかわらず、ジェームズは兵数を三万にふやし、一万三千の兵をロンドン市の西部に駐屯させて、市に圧力をかけた。
常備軍は、イギリス人にもっとも肌のあわないものである。
そしてカトリック教徒のジェントルマンが、この軍の将校に任命された。
兵士たちはカトリック教徒ではない。そこで、彼らを改宗させようとしたが、いたずらに憤慨をまねいたにすぎなかった。
一六八七年四月、ジェームズは「寛容宣言」を発布してカトリック教徒や非国教徒に対して礼拝の自由をあたえ、彼らが公務につくことをさまたげていた法律を全部廃止した。
非国教徒は最初は感謝したけれども、やがてこの自由が奴隷化に通ずることに気づき、これを拒絶した。
一六八八年六月、第二の「寛容宣言」が発せられ、カトリック教徒が文武の公職に就任した。
非国教徒たちは「寛容宣言」が、「審査法」を廃止し、悪魔の権力、すなわち教皇およびカトリック教会を復活する狡猾(こうかつ)な手段であるとにらんだ。
そこで彼らは国教徒とむすんで、王に反対した。