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8-4-2 オイラート

2023-12-23 07:27:21 | 世界史

『アジア専制帝国 世界の歴史8』社会思想社、1974年
4 モンゴルの復興
2 オイラート

 土木の変の当時、エセンはモンゴル最大の実力者ではあったが、カン(汗)ではなかった。
 モンゴルの伝統においては、チンギス汗の子孫でなければ、カンとして認められなかったのである。
 ましてエセンは、モンゴル人ではあったが、そのなかでも傍系と見なされたオイラート部の出身であった。
 オイラート部というのは、モンゴル高原の西北部を本拠としていた部族である。
 十三世紀の初め、チンギス汗の配下に入り、モンゴル帝国の一翼をなした。
 しかも当時から四つの万戸を編成したほどに、有力な部族であり、モンゴル帝室とも婚姻を通じていた。
 さて元朝が、中国を追われてモンゴル高原にしりぞいた後、順帝(元朝最後の朝帝)の子どもはカラコルムに拠って、なお大元の皇帝を袮していた。
 これが北元である。
 ところが北元二代目のトグステムールは、一三八八年、明軍にやぶれてカラコルムにむかう途中、王族のイェスデルに殺された。
 元朝の嫡流は、ここに断絶する。
 イェスデルは、かつてフビライとカン位を争ったアリクプカの子孫であった。
 それがモンゴル高原の西北部に勢力をはるオイラートの後楯(うしろだて)をえて、皇帝の位をうばったのである。
 この事件によって、オイラートの勢力がいっそう高まったことは、いうまでもない。
 モンゴル高原の中央には、ゴビ砂漠が東北から西南に走り、東モンゴル(内モンゴルともいう)と西モンゴル(外モンゴルともいう)とに分けている。
 オイラートの地盤は西である。
 これに対して元朝を受継ごうとするカン家は、主として東方をかためた。
 そのころモンゴルの地をはなれて、サマルカンドのチムールのもとに走っていた王子がいた。
 オルジェイ・チムールと名のった。
 その血統はわからないが、カンの一族であったことは疑いない。

 チムールは、この王子をいただいて明朝をたおし、モンゴル大帝国を復興しようとしたのであった。
 しかしチムールは一四〇五年に病死した。
 オルジェイ・チムールは独力でモンゴルヘかえり、カン位を回復した。
 ときに明朝の永楽六年(一四〇八)である。
 モンゴル高原には、こうして二つの勢力が並び立った。
 西のオイラートと、東のカン家であった。
 この元朝の後裔(こうえい)を、明では「韃靼(だったん)」とよんだ。
 むかし東モンゴルに拠ったタタール部の名称を、ふたたび用いたわけである。
 そして永楽帝は、まず韃靼(オルジェイ・チムール)の招諭をはかった。
 しかし韃靼は応じようとしない。
 永楽帝はみずから大軍をひきいて、モンゴルの地に攻め入った。
 これが永楽七年(一四〇九)から、帝の死去(一四二四)までつづく北征である。
 いわゆる「五出三犂(れい)」の壮挙である。
 しかし永楽帝の外征は、東モンゴルの勢力をよわめたものの、かえって西モンゴルのオイラートの強勢をもたらした。
 おりからあらわれたトゴンは、オイラート諸部を統一した上、宣徳年間には東モンゴルをも制圧する。
 ここにトゴンは、全モンゴルをおさえたのであった。
 しかしチンギス汗の血をひいていないから、みずからカンとなることはできない。
 よって元朝の子孫をもとめ、トクタブカという者をむかえて、カンに立てた。
 トゴンの子が、エセンである。
 一四三九年、父の死によって、あとをついだ。
 トタクブカをカンにいただくことは、従前のとおりである。
 明軍に対するエセンの勝利は、このような状況のもとでなされたのであった。
 ときにエセンは西モンゴルに拠り、カンのトクタブカは東モンゴルに拠っている。
 その仲はかならずしも、しっくりいっていない。
 ややもすればトクタブカは、明朝と和をむすんで、エセンに対抗するかの動きも見えた。
 エセンが正統帝をあっさりかえしたのは、こうした事情もあったからである。
 その翌年(一四五一)、ついに両者の間は爆発した。
 トクタブカはエセンの軍に追われ、敗走する途中で殺された。
 元朝の子孫も、オイラート人を母とするもの以外は、ことごとくほろぼされた。
 オイラートは名実ともに、モンゴル高原を制したのである。
 一四五三年、エセンはみずからカン位につき、大元天聖大可汗(カガン)と袮した。
 チンギス汗の子孫でもないのにカンとなった者は、エセンのほかにない。
 しかしエセンの天下は短かった。
 カンとなった翌年には、部下のために殺されてしまったのである。
 内紛によってオイラートは、たちまち分裂した。
 このすきに乗じて、ふたたびおこったのが、東モンゴルに拠る元朝の後裔(こうえい)たちである。
 しかも、カンと部将との間には、殺し合いがくりかえされ、しばらくモンゴル高原には全土を統一するほどの大勢力はあらわれない。
 そうした争覇の状態が、三十年あまりもつづいた。



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