『中世ヨーロッパ 世界の歴史5』社会思想社、1974年
9 シチリアの晩祷(ばんとう)
2 シチリア小史
地中海世界(1199年)
八世紀の末、ビザンティン(東ローマ)帝国領であったシチリア島はアラブ(サラセン)勢の制海権下に入った。
アラブの侵入は八二七年にはじまり、パノルムス(パレルモ)は八三一年、アラブ勢の手中に陥り、アル・マディナと改称された。
ビザンティン勢は、なお首府シラクサおよび島の南部にいくつかの拠点を確保していたが、それも八七八年までのことであった。
地中海はアラブの海と化し、パレルモの港はサラセン商人の貿易中継地として栄えた。
アラブの支配は苛酷なものではなかった。
シチリアの島民はいままでどおりの生活をゆるされ、税金もむしろビザンティン時代より安かった。
やがて十一世紀に入り、こんどはノルマン人が新たな支配者としてシチリアにのぞんだ。
この世紀のなかごろ、フランスのノルマンディーのオートビル家の兄弟十二人が、冒険をもとめて地中海に入り、南イタリアを征服した。
一〇五九年そのひとりロペール・ギスカールが、ローマ教皇からアフリアとカラブリアを授封され、アプリア侯と称することになった。
その後、ロペールのいちばん年下の弟ロジエが、教皇の命で、わずか百余名のノルマン騎士をひきつれてシチリア島におもむき、サラセン勢の内紛に乗じて暴れまわり、だいたい一〇九〇年ごろまでに同島の征服を完了した。
ロジエは、ローマ教皇を封主とするシチリア伯として島を支配した。
その息子のロジエ二世の代に、ロペール・ギスカールの孫、アプリア侯ギョームが死んだ。
ロジエ二世は、教皇が反対したにもかかわらず、正当の後継者を無視して、南イタリアを領有し、一二二〇年パレルモにおいて戴冠し、王を称した。
ここにいわゆる両シチリア王国が誕生したのである。
彼は東にビザンティンと対峙し、南に対岸アフリカのチュニジアのサラセン政権を圧し、ローマ教皇と争いながら、シチリアを強大な王国に作りあげたのである。
その息子ギョーム一世(一一五四~六六)、その孫ギョーム二世(一一六七~八九)と三代の王のもとに、シチリアはその黄金期を迎えた。
制度と文化のあらゆる局面に、アラブ、ビザンティン、封建制度の三要素が混在していた。
政治体制の基本構造は封建制度であったが、南イタリアはともかく、シチリアにはもともと封土をあたえられた貴族の数が少なく、島の大部分は王領であって、王による集権政策をきわめて容易なものにしていた。
地方行政も、中央官庁「王の法廷」から派遣される行政官によって運営され、都市はすべて王の直接統制下におかれていた。
官職の多くはアラブないしピザンティンふうの呼称をそのままに残し、宮延ではフランスのノルマンディー方言が使われていた。
法令はラテン、ギリシア、アラビア語で告示され、一般の言語はおもにギリシア語が使われ、アラブ人地区ではアラビア語が使われる、といったぐあいだった。
両シチリア王ロジェ二世が戴冠した
パレルモのプラティナ寺院
アラブ人たちはアラブ寺院での礼拝を許され、コーラン法典にしたがうアラブ人専用の法廷も設置されていた。
もちろんギリシア人に対しては、ビザンティン法による法廷が設けられていた。
ギリシア正教の聖職者たちは、ローマ教皇を至高の権威と認めなければならなかったが、礼拝はギリシア正教の様式にのっとって、自由に行なわれた。
パレルモには椰子(やし)やバナナの木が茂り、サボテンの花も咲く、巨大なゴシック寺院。金色のモザイクに目もまばゆいばかりのビザンティン・ノルマン式寺院の丸天井には、モザイクのキリスト像がみおろしている。
隠者ギレルモ修道院の屋根には、アラブふうクーポラの赤色が濃紺の空にうかんでいる。
アラブ人イブン・ユバイールは、その紀行文に、興味ぶかげに書きとめている。
「キリスト教徒の女たちは、サラセン教徒の女たちの身なりをまねている。
外出するときにはベールとアパスをつけ、ひっきりなしにおしゃべりしている」と。
黄金時代は永遠にはつづかない。
一一八九年、ギョーム二世が子なくして死に、王位継承権は彼の父の腹ちがいの妹で、ロジエ二世の死後に生まれたコンスタンスの手中に入った。
コンスタンスは、神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒ赤ひげ王の長子で、十一歳年下のホーエンシュタウヘン家のハインリヒと結婚していた。
しかし、シチリア人は、ドイツ人を王にいただくことを嫌って、王冠をアプリアのレッチェの伯、タンクレッドにさしだした。タンクレッドは、ロジエ二世の長子(父の生前に死去)の庶子にあたる。タンクレッドの治世は安定を欠いていた。
ハインリヒは、父のフリードリヒ赤ひげ王をたすけてドイツ本国でいそがしく、南に目を向ける余裕をもたなかった。
しかしシチリア王国に対する権利を放棄したわけではなかった。貴族たちはタンクレッドに反感をもち、サラセン教徒はしきりに不穏な動きをみせた。
彼の治世中に、第三回十字軍に向かうイギリス王リチャード獅子心王、フランス王フィリップ尊厳王がシチリアを通過している。
一一九一年、ハインリヒはドイツからイタリアに入り、ローマで戴冠した。
神聖ローマ帝国皇帝ハインリヒ六世である。
彼はその足で両シチリア王国の制圧に向かい、ナポリ、サレルノを征したが、その後、途中でひきあげている。
やがて、九四年初頭、タンクレッドが死んだ。
妃のシビラは摂政(せっしょう)として遺児ギョームを守ったが、やがてようやくドイツ本国内の情勢に小康をみいだしたハインリヒが大軍をひきいて南下した。
シビラは抵抗むなしく捕えられて獄中に監禁され、遣児は消息不明ということにされてしまった。
この年の冬、クリスマスの日に、ハインリッヒはパレルモの大寺院において、シチリア王の冠をうけた。
そのとき、妃のコンスタンスは、アプリアのある小さな町でお産の床についていた。
結婚後九年、四十歳の彼女は、いまようやく帝位継承者を生もうとしている。
枢機卿や司教十九人あまりが産室をとりまいている。
夫の戴冠式の翌日彼女は男の子を生んだ。
洗礼名はフリードリヒとつけられた。のちのフリードリヒ二世である。
9 シチリアの晩祷(ばんとう)
2 シチリア小史
地中海世界(1199年)
八世紀の末、ビザンティン(東ローマ)帝国領であったシチリア島はアラブ(サラセン)勢の制海権下に入った。
アラブの侵入は八二七年にはじまり、パノルムス(パレルモ)は八三一年、アラブ勢の手中に陥り、アル・マディナと改称された。
ビザンティン勢は、なお首府シラクサおよび島の南部にいくつかの拠点を確保していたが、それも八七八年までのことであった。
地中海はアラブの海と化し、パレルモの港はサラセン商人の貿易中継地として栄えた。
アラブの支配は苛酷なものではなかった。
シチリアの島民はいままでどおりの生活をゆるされ、税金もむしろビザンティン時代より安かった。
やがて十一世紀に入り、こんどはノルマン人が新たな支配者としてシチリアにのぞんだ。
この世紀のなかごろ、フランスのノルマンディーのオートビル家の兄弟十二人が、冒険をもとめて地中海に入り、南イタリアを征服した。
一〇五九年そのひとりロペール・ギスカールが、ローマ教皇からアフリアとカラブリアを授封され、アプリア侯と称することになった。
その後、ロペールのいちばん年下の弟ロジエが、教皇の命で、わずか百余名のノルマン騎士をひきつれてシチリア島におもむき、サラセン勢の内紛に乗じて暴れまわり、だいたい一〇九〇年ごろまでに同島の征服を完了した。
ロジエは、ローマ教皇を封主とするシチリア伯として島を支配した。
その息子のロジエ二世の代に、ロペール・ギスカールの孫、アプリア侯ギョームが死んだ。
ロジエ二世は、教皇が反対したにもかかわらず、正当の後継者を無視して、南イタリアを領有し、一二二〇年パレルモにおいて戴冠し、王を称した。
ここにいわゆる両シチリア王国が誕生したのである。
彼は東にビザンティンと対峙し、南に対岸アフリカのチュニジアのサラセン政権を圧し、ローマ教皇と争いながら、シチリアを強大な王国に作りあげたのである。
その息子ギョーム一世(一一五四~六六)、その孫ギョーム二世(一一六七~八九)と三代の王のもとに、シチリアはその黄金期を迎えた。
制度と文化のあらゆる局面に、アラブ、ビザンティン、封建制度の三要素が混在していた。
政治体制の基本構造は封建制度であったが、南イタリアはともかく、シチリアにはもともと封土をあたえられた貴族の数が少なく、島の大部分は王領であって、王による集権政策をきわめて容易なものにしていた。
地方行政も、中央官庁「王の法廷」から派遣される行政官によって運営され、都市はすべて王の直接統制下におかれていた。
官職の多くはアラブないしピザンティンふうの呼称をそのままに残し、宮延ではフランスのノルマンディー方言が使われていた。
法令はラテン、ギリシア、アラビア語で告示され、一般の言語はおもにギリシア語が使われ、アラブ人地区ではアラビア語が使われる、といったぐあいだった。
両シチリア王ロジェ二世が戴冠した
パレルモのプラティナ寺院
アラブ人たちはアラブ寺院での礼拝を許され、コーラン法典にしたがうアラブ人専用の法廷も設置されていた。
もちろんギリシア人に対しては、ビザンティン法による法廷が設けられていた。
ギリシア正教の聖職者たちは、ローマ教皇を至高の権威と認めなければならなかったが、礼拝はギリシア正教の様式にのっとって、自由に行なわれた。
パレルモには椰子(やし)やバナナの木が茂り、サボテンの花も咲く、巨大なゴシック寺院。金色のモザイクに目もまばゆいばかりのビザンティン・ノルマン式寺院の丸天井には、モザイクのキリスト像がみおろしている。
隠者ギレルモ修道院の屋根には、アラブふうクーポラの赤色が濃紺の空にうかんでいる。
アラブ人イブン・ユバイールは、その紀行文に、興味ぶかげに書きとめている。
「キリスト教徒の女たちは、サラセン教徒の女たちの身なりをまねている。
外出するときにはベールとアパスをつけ、ひっきりなしにおしゃべりしている」と。
黄金時代は永遠にはつづかない。
一一八九年、ギョーム二世が子なくして死に、王位継承権は彼の父の腹ちがいの妹で、ロジエ二世の死後に生まれたコンスタンスの手中に入った。
コンスタンスは、神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒ赤ひげ王の長子で、十一歳年下のホーエンシュタウヘン家のハインリヒと結婚していた。
しかし、シチリア人は、ドイツ人を王にいただくことを嫌って、王冠をアプリアのレッチェの伯、タンクレッドにさしだした。タンクレッドは、ロジエ二世の長子(父の生前に死去)の庶子にあたる。タンクレッドの治世は安定を欠いていた。
ハインリヒは、父のフリードリヒ赤ひげ王をたすけてドイツ本国でいそがしく、南に目を向ける余裕をもたなかった。
しかしシチリア王国に対する権利を放棄したわけではなかった。貴族たちはタンクレッドに反感をもち、サラセン教徒はしきりに不穏な動きをみせた。
彼の治世中に、第三回十字軍に向かうイギリス王リチャード獅子心王、フランス王フィリップ尊厳王がシチリアを通過している。
一一九一年、ハインリヒはドイツからイタリアに入り、ローマで戴冠した。
神聖ローマ帝国皇帝ハインリヒ六世である。
彼はその足で両シチリア王国の制圧に向かい、ナポリ、サレルノを征したが、その後、途中でひきあげている。
やがて、九四年初頭、タンクレッドが死んだ。
妃のシビラは摂政(せっしょう)として遺児ギョームを守ったが、やがてようやくドイツ本国内の情勢に小康をみいだしたハインリヒが大軍をひきいて南下した。
シビラは抵抗むなしく捕えられて獄中に監禁され、遣児は消息不明ということにされてしまった。
この年の冬、クリスマスの日に、ハインリッヒはパレルモの大寺院において、シチリア王の冠をうけた。
そのとき、妃のコンスタンスは、アプリアのある小さな町でお産の床についていた。
結婚後九年、四十歳の彼女は、いまようやく帝位継承者を生もうとしている。
枢機卿や司教十九人あまりが産室をとりまいている。
夫の戴冠式の翌日彼女は男の子を生んだ。
洗礼名はフリードリヒとつけられた。のちのフリードリヒ二世である。