『アジア専制帝国 世界の歴史8』社会思想社、1974年
3 鄭和の南海経略
6 最後の航海
第七次の遠征に関しては、くわしい記録が伝わっていて、ほとんどその全貌を知ることができる。
一行の総勢は二万七千五百五十名であったが、そのなかにはさまざまの職種がふくまれていた。
おもなものを挙げれば、つぎのごとくである。
官校…将校。旗軍…兵員。火長…下士。舵工…操舵手。
通事…通訳。辯事(べんじ)…主計士。書算手…主計員。医士。
鉄匠、木匠…工作員。水手…水夫。
こうした人びとが、一隻について四百五十人以上も乗りくんだ。
船は「宝船(ほうせん)」とよばれ、三本の檣(しょう=マスト)を高く立てた。
これに帆をはって走るのである。
また第七次の船については「大八櫓(ターパールー)、二八櫓(アルバールー)」などと名づけられていたところから見れば、無風のときには櫓をもちいたに違いない。
ひとつひとつの船にも、名前や番号がつけられていた。
「清和」「恵康」「長寧」「安済」「清遠」などという名が伝えられている。
武力をもちいての遠征というよりは、平和と友好の増進という気持が、これらの船名からうかがわれるであろう。
このたびは艦隊の寄港地や、行程なども、くわしい記録がのこされている。
それによって、当時の航海のようすをしのぶこともできる。
これでみると、往路のスマトラからセイロンまでには、二十六日を要している。
ところが帰路は、カリカットからスマトラまで、十七日しか要しなかった。
この間の事情も、べつの記録によって確かめられる。
すなわち往路には海上で雨にあって「風水も不順」、たまたま十月二十三日、ニコバル(あるいはアングマン)諸島にいたった。
よって、ここに碇泊すること三昼夜、もって風水の難をさけたのであった。
ところで鄭和は、このたびも艦隊の一部をさいて別行動をとらせている。
そのうち七人の通事(通訳)は、カリカットから西方へむかい、紅海を北上してはるばるメッカをおとずれた。
メッカこそは、イスラム教の聖地である。イスラム教徒として、メッカ巡礼は人生における最大の願望である。
鄭和もイスラム教徒であり、みずからはメッカ巡礼を果たせなかったけれども、その部下をして代参させたのであった。
メッカにおもむいた一行は、帰途にアデン、ドファールに寄り、それぞれの国から使者を伴って、オルムズで本隊に合した。