『アジア専制帝国 世界の歴史8』社会思想社、1974年
3 鄭和の南海経略
1 大艦隊の発航
永楽三年(一四〇五)の初冬、福州にほど近い閩江(みんこう)の江口をうずめるように、六十二隻の大艦隊が碇泊した。
ひとつひとつの艦が、また巨大なものである。長さは約一四〇メートル、幅は五八メートルもあって、一隻に四百五十人もの人員をのせることができる。
乗組の総員は、二万七千八百余という大勢であった。
旗艦には、容姿すぐれた武将が坐乗している。
司令長官の鄭和(ていわ)である。
雲南の出身で、旧姓を馬といい、父祖三代にわたるイスラム教徒であった。
永楽帝がまだ燕王であったころから、宦官(かんがん)として仕え、靖難(せいなん=国の危機を救う)の師をおこすのに功労があったところから、宦官の長官たる太監に任ぜられ、鄭の姓をたまわった。
しかも、このたび永楽帝が南方の海上に大艦隊をさしむけようとするにあたり、その指揮を命じられたものである。
ゆくさきの諸国は、おおむねイスラム教を奉じている。
その海上をかけまわって、主役を演じているのは、ことごとくイスラム教徒の船乗りである。
宦官ではありながら鄭和は、武将としてすぐれた才能をそなえていた。
それとともにイスラム教徒であったことが、南方にむかうのに、もっとも適当とおもわれたに違いない。
明朝においては、初代の洪武帝が、即位するとまもなく、すなわち洪武二年(一三六九)から三年にかけて、南方の諸国に使者をつかわした。
あたらしい王朝の成立をつげて、入朝することをうながしたのである。
招きをうけた諸国は、つぎつぎに朝貢(ちょうこう)してきた。
しかし洪武帝は、南方の海上にまで征服の手をのばそうとしたわけではない。
海外との貿易をさかんにしよう、と考えたわけでもない。
ただ中華の皇帝として、その威勢を遠方にまでひろげよう、としたに過ぎなかった。
朝貢もたびかさなれば、応接や恩賜のための出費が多くなる。
そこで洪武八年には南方諸国の朝貢の回数も、三年に一度と制限してしまった。
そればかりか、洪武帝は民間の貿易を厳禁した。
建国の当初には、沿岸の各地にまだ元末の群雄が、それぞれ力をふるっている。
かれらが洪武帝によってほろぼされたのちも、残党はしばしば海辺に出没した。
そこで民間の人びとが海上に乗りだして、これらの残党と結託するのを防がねばならなかった。
そうして官営の貿易といえば、朝貢(ちょうこう)というかたちをとらなければ、ゆるされない。
その朝貢も制限したのであるから、海上の交通がふるわなくなるのも、当然であった。
やがて、永楽帝が立つと(一四〇二)、こうした消極的な方針は一変された。
即位してただちに、南方へは招諭の使者が発せられる。
それはベトナムから、ジャワ、スマトフ、さらに南インドの諸国にまで及んだ。
使者たちは永楽三年に帰国する。
それといっしょに、諸国からの朝貢の使者もやってきた。
南方の情勢は、すこぶる明らかとなった。
その知識にもとづいて、永楽帝はさらに大がかりな招諭をくわだてたのである。
鄭和(ていわ)らに対する出使の命令は、永楽三年六月に下された。
こうして六十二隻の大艦隊は、いまの上海の西北にあたる劉家港を出発した。
それより長江(揚子江)を下って海に入り、ひとまず閩江の江口にある五虎門に寄った。
ここで、冬期に吹く東北風(モンスーン)を待つ。
中国の岸をはなれたのは、十月から十一月にかけてのころであろう。
艦隊は、まず現在の南ベトナムの地にあったチャンパ(占城)をめざした。
おりから北ベトナムでは、チャン(陳)朝の帝位が権臣のホー(胡)氏にうばわれていた(一四〇〇)。
そしてホー氏は、しきりに兵を発して、南ベトナムのチャンパ王国を攻めたてた。
チャンパ国王は永楽帝にむかって、北からの侵略をうったえた。
明朝にとっては、干渉の好機である。
やがて明の大軍は北ベトナムに進攻するが、鄭和の艦隊がチャンパにおもむいたのは、その直前のことであった。
なお明軍は、永楽五年(一四〇七)にホー氏をほろぼし、北ベトナムを領有する。
鄭和の艦隊は、チャンパの新州港に寄った。そこは、いまのキニョン(帰仁)である。
そこからは、まっすぐ南へむかって、インドネシアのジャワ島をめざした。
すでに年はかわって、永楽四年になっている。