しかしながら、わたしたちにとって殉教者は神々ではない。なぜなら、神はわたしたちにとっても殉教者にとっても唯一の同じかたであると知っているからである。すくなくとも、異教の神々の神殿でおこったと伝えられる奇跡は、わたしたちの殉教者の記念堂でおこった奇跡とまったく較べようもないのである。
しかし、もしもいくらか似たところがあったとしても、パロの魔術師がモーセによって打ち負かされたように、その神々はわたしたちの殉教者によって打ち負かされたのである。さらに、汚れた高慢で満ちたダエモンらは、自分たちが異教徒の神々になろうという野心によってそういうわざをおこなったのであるが、わたしたちの奇跡は、殉教者たちが、あるいはむしろ神がかれらを協働させ、またはかれらの祈りに応えるような仕方でなされたのであって、それは信仰の進歩のためである。その信仰によって、わたしたちは殉教者たちが神々であるとはおもわず、わたしたちにとっても、かれらにとっても、唯一の神であると信じている。
したがってこのようになる。すなわち、異教徒は自分たちの神々のために神殿を建て、祭壇を設け、祭司職を確立し、犠牲をささげるが、それに対してわたしたちは殉教者を神々のように扱ってそのために神殿を建てることはせず、その霊が神のもとに生きる人間として記念堂を建てるのである。わたしたちはその記念堂のなかに祭壇を設けて殉教者に犠牲をささげるようなことはしない。犠牲は、殉教者とわたしたちとの唯一の神にささげられるのである。かれらはその告白によって世に勝ったのであるから、この犠牲において、かれら自身の場所において、ふさわしい順序の下、「殉教の人」とよばれるのである。
しかしかれらは犠牲をささげる祭司によって呼び出されることはない。たとえ記念堂において犠牲をささげるとしても、それは殉教者たちにたいしてではなく、神にたいしてささげるのである。なぜなら、その人は神の祭司なのであって、殉教者の祭司ではないからである。じっさい、犠牲そのものはキリストのからだにほかならず、かれら自身がそのからだであるから、かれらに犠牲がささげられることはないのである。それでは、わたしたちは、奇跡の業をなすどのような者を信じたらよいのであるか。これらの業をおこなった人びとに神々と認められることを欲する者たちであるか。それとも、神とキリストが信ぜられるために不思議なことをおこなう者たちであるか。それとも、自分の名誉をも聖なるものとなすことをのぞまず、かえって、正当にたたえられてよいすべての業を、そのかたの栄光となす人びとであるか。というのも、たしかにかれらの魂がほめたたえられるのは主においてであるからである。この後者をこそ信ぜられなければならない。それというのも、かれらは真理を語り、奇跡をおこなうのだからである。
じっさい、かれらが著難をうけたのは真理を語ったためであり、まだ、このことによって奇跡をなしえたのである。かれらが語る真理のうち、もっとも重要なものはこれである。すなわち、キリストば死者のうちよりよみがえって肉における復活の不滅性を最初に示されたのであり、そして、このことが新しい時代のはじまりに、すなわちこの世の終わりにわたしたちにおこるであろうことを約束されたのである。
聖アウグスティヌス
しかし、もしもいくらか似たところがあったとしても、パロの魔術師がモーセによって打ち負かされたように、その神々はわたしたちの殉教者によって打ち負かされたのである。さらに、汚れた高慢で満ちたダエモンらは、自分たちが異教徒の神々になろうという野心によってそういうわざをおこなったのであるが、わたしたちの奇跡は、殉教者たちが、あるいはむしろ神がかれらを協働させ、またはかれらの祈りに応えるような仕方でなされたのであって、それは信仰の進歩のためである。その信仰によって、わたしたちは殉教者たちが神々であるとはおもわず、わたしたちにとっても、かれらにとっても、唯一の神であると信じている。
したがってこのようになる。すなわち、異教徒は自分たちの神々のために神殿を建て、祭壇を設け、祭司職を確立し、犠牲をささげるが、それに対してわたしたちは殉教者を神々のように扱ってそのために神殿を建てることはせず、その霊が神のもとに生きる人間として記念堂を建てるのである。わたしたちはその記念堂のなかに祭壇を設けて殉教者に犠牲をささげるようなことはしない。犠牲は、殉教者とわたしたちとの唯一の神にささげられるのである。かれらはその告白によって世に勝ったのであるから、この犠牲において、かれら自身の場所において、ふさわしい順序の下、「殉教の人」とよばれるのである。
しかしかれらは犠牲をささげる祭司によって呼び出されることはない。たとえ記念堂において犠牲をささげるとしても、それは殉教者たちにたいしてではなく、神にたいしてささげるのである。なぜなら、その人は神の祭司なのであって、殉教者の祭司ではないからである。じっさい、犠牲そのものはキリストのからだにほかならず、かれら自身がそのからだであるから、かれらに犠牲がささげられることはないのである。それでは、わたしたちは、奇跡の業をなすどのような者を信じたらよいのであるか。これらの業をおこなった人びとに神々と認められることを欲する者たちであるか。それとも、神とキリストが信ぜられるために不思議なことをおこなう者たちであるか。それとも、自分の名誉をも聖なるものとなすことをのぞまず、かえって、正当にたたえられてよいすべての業を、そのかたの栄光となす人びとであるか。というのも、たしかにかれらの魂がほめたたえられるのは主においてであるからである。この後者をこそ信ぜられなければならない。それというのも、かれらは真理を語り、奇跡をおこなうのだからである。
じっさい、かれらが著難をうけたのは真理を語ったためであり、まだ、このことによって奇跡をなしえたのである。かれらが語る真理のうち、もっとも重要なものはこれである。すなわち、キリストば死者のうちよりよみがえって肉における復活の不滅性を最初に示されたのであり、そして、このことが新しい時代のはじまりに、すなわちこの世の終わりにわたしたちにおこるであろうことを約束されたのである。
聖アウグスティヌス