
『アジア専制帝国 世界の歴史8』社会思想社、1974年
3 鄭和の南海経略
3 タイとセイロン
鄭和が第一次の遠征をおえて南京に帰着すると(九月三日)、それから十日をおいて(九月十三日)、またも遠征が命令せられた。
このたびは、鄭和自身は参加していない。
永楽五年のうちに出航した艦隊は、ジャワからコーチンをへてカリカットに達し、さらにクイに寄って、永楽七年に帰国した。
艦隊も小規模なものであったらしく、その編成も伝えられていない。
出航や帰着のくわしい日付も、また不明である。
第二次の艦隊がまだ帰ってこぬうちに、つぎの遠征が命じられた。
すなわち永楽八年(一四〇八)九月、鄭和に対して第一次の場合とほぽ同じ規模で、南海の諸国をまわってくることが命じられたのである。
そのために四十八隻より成る艦隊が建造された。
ただし実際に出航したのは、第二次の隊員が帰ってからのち、永楽七年(一四〇九)の九月であった。
その間は、遠征に関してさまざまの準備についやされたものであろう。
永楽七年二月朔(ついたち=一日)には、皇帝が「南海神」をまつっている。
南海へおもむくにあたって、その神がしばしば大きな霊応をあらわす、と考えられていたからであった。
この「南海神」とは、セイロン島のガレにある仏寺のことを書していると思われる。
さて鄭和の艦隊は九月に劉家港を発し、前とおなじように、いったん閩江(みんこう)口に寄ったのち、十二月に出帆した。
南海における航路も、第一次のときとほぼ同様であった。
すなわちチャンパからジャワ東部におもむき、ついで西へむかって、マラッカからカリカットにまで達した。
このたびはマラッカに対しても、特別の使命をもっていた。
そのころマラッカやスマトラの諸国は、南下してくるタイ王国の圧力になやまされていた。
そこで明朝に、援助をもとめていたのである。
鄭和の艦隊がマラッカに寄ったのは、これに保護をくわえるためであった。
いまのタイ族の先祖は、はじめ中国の西南部(雲南)に住んでいた。
それがしだいに南方に追われ、インドシナ地方(ビルマから、ラオス、タイ)へはいりこんでいったものである。
こうして十三世紀のなかばには、メナム(正しくは、チャオプラヤ川「メナム」とは、“川”の意)の中流域を占めて、スコタイ朝を建てる。
中国では、これを「暹(せん)」とよんだ。
ところが十四世紀の半ばになると、メナム下流域のロプブリ付近からあたらしい勢力がおこる。
この方面にのびていたカンボジアの勢力をしりぞけ、都をアユタヤにさだめた。
これがアユタヤ朝である。ところでロプブリの地方は、中国で「羅斛(らこく)」として知られていた。
よってアユタヤ朝も「羅斛」とよばれる。
それがスコタイ朝をほろぼして、タイ全土を統一したのは、一三四九年のことであった。
「羅斛(らこく)」が「暹(せん)」を合わせたわけである。
中国では、これよりタイのことを「暹羅(せんら)」とよぶ。
なお、タイというのは「自由」を意味し、かれらの自称である。 旧称は「シャム」であった。
明朝が成立すると、アユタヤ朝はしきりに使者をつかわし、朝貢して親善をはかった。
しかしそれが南方にまで力をのばし、マラッカなどから救援をもとめられると、明朝としても捨ててはおけない。
そこでアユタヤ朝に対して戒告の勅諭を下した。
また鄭和は、マラッカの首長を「満刺加国王しに封(ほう)ずるとの詔勅をもたらした。
これはマラッカが明朝に服属する一国なることを、明らかにしたものである。
こうなるとマラッカを侵すことは、明朝に対する反逆と見なされるわけである。
さてマラッカからは、スマトラをへてセイロンにむかう。
ガレに上陸し、その地の仏寺にまいり、たくさんの供物をささげて供養をいとなんだ。
この仏寺こそ「南海神」である。
鄭和はさきに永楽帝が「南海神」をまつったとき(永楽七年二月一日)の詔文を、石碑に刻して建立した。
この石碑は一九一一年、ガレにおいて発見されたのである。
そのときは町のなかの溝(みぞ)の蓋(ふた)石になっていたという。
いまはコロンボの国立博物館に蔵せられている。
碑文は、漢文のほか、タミール語とペルシア語をもちいて記された。
タミール語はセイロンや南インドで用いられてきたものであり、ドラビダ語系に属する。
ペルシア語は南アジアのイスラム教圏において、ひろく用いられた国際語であった。
よって、主体となる漢文に、この両国語による訳文をくわえたのであろう。
供養や建碑とならんで、前回とおなじく、セイロン国王を招諭した。
しかし国王アラガッコナーラは、依然として服従しない。
かえって反抗しようとしたので、やむなく去った。
それから鄭和の艦隊は、カリカットまでおもむき、帰路にふたたびセイロンに寄った。
ここで大事件がおこった。
セイロン国王は親善をよそおって鄭和をまねき、ひそかに五万余の兵を発して艦隊をおそわせた。
かつ、木をたおして鄭和らの帰りみちをふさいだ。
さとったときは遅かった。
もはや港へかえることはできない。
しかし鄭和は二千余の兵をひきいていた。
よって伝令を発して、他の道から艦隊に連絡をとり、死力をつくして攻撃をふせぐことを命じた。
みずからは二千余の兵をもって、間道から王城にいたる。
不意をついて攻め、たちまち王城をのっとった。
ここに国王をはじめ、大官たちをとりこにする。
王城はコック(あるいはガンボラ)にあった。
そこから港にいたるまでは「二十余里」であったというから、艦隊が寄港したのは、おそらくコロンボであろう。
艦隊を攻めていたセイロン軍は、王城がうばわれたことを知ると、ひきかえして、逆に王城をかこんだ。
こうして戦うこと六日。
つぎの明けがた、鄭和は国王たちをとらえたまま、門をひらいて突出した。
戦いながら障害をとりのぞき、そうして進む。
日の暮れるころ、ようやく艦隊までかえりついた。
大きな勝利をおさめて艦隊はいよいよ帰途につく。
マラッカ海峡をこえてからは、マライ半島の東岸にそって北上し、バハンやケランタンなどの国を招諭したようである。
帰国したのは永楽九年(一四一一)六月、マラッカ国王は謝恩のため、みずから同行した。
永楽帝は、新都の北京にうつっていた。
捕虜とされたセイロン国王アラガッコナーラも、北京までともなわれた。
しかも永楽帝は中華の天子としての襟度(きんど)をしめし、国王をゆるして帰国させる。
ただし新しい国王として、その一族の賢者を立てさせたのであった。
それがパラクカーマ・バーフ六世である。ともあれ、このたびの出来事は、セイロンの歴史の上でも特筆される大事件であった。
