『東洋の古典文明 世界の歴史3』社会思想社、1974年
3 詩経の世界
6 祖のまつり
世はうつった。もはや歌われるのは、領主の土地の耕作と、その祖先の祭祀であった。
小雅「信南山」
つらなる南の山のほとり むかし禹の治めたところ
ひらきならした原や隰(さわ) 曾孫(みすえ)こそここに田(はたけ)つくる
境をくぎり 溝(みぞ)をほり 南に東に畝(うね)つくる。
おお空に 雲あつまり 雪はしんしんと落ち、
春は小雨(こさめ)も降りそえば しめり ゆたかに
うるおい たりて わが百穀は生(お)い出(い)でた。
境も畦(あぜ)も ととのって 黍(きび)も稷(たかきび)もふさふさ茂る
この曾孫(みすえ)のとりいれで 酒(みき)かもし 飯(いい)かしぎ、
尸(かたしろ=先祖の扮装をした巫)や賓(まろうど)にすすめれば いのちは千代(ちよ)に万代(よろずよ)に
畑にはだいこんが生(な)り 畦(あぜ)には 瓜(うり)が生り
その皮をむき酢(す)につけて 先祖(みおや)の霊(みたま)に供(そな)うれば、
曾孫のいのちこそ永く 天の幸(さいわい)をうけたまう。
清らけき酒(みき)を盛りて 赤牡(あかうし)の牲(にえ)をひきだし
なき父と先祖(みおや)にささげ 鈴の刀をとりて
耳の毛をぬき毛色を告げ 剖(さ)いてその血と脂(あぷら)をとる。
かく供え かくすすめ 香りは高く立ちのぼり
まつりめでたく整えば 先祖(みおや)こそ おごそかに
大きな福(さち)を報(むく)いたまい いのちは永くかぎりなし。
祭礼のときの祖先の尸(かたしろ)と祝(はふり=神主)との問答や、祭礼の順序をくわしくのべた詩もある。
また領主が田を見まわるとき、田には監督(かんとく)の者(田畯=でんじゅん)がいて、ひるには農婦たちが食物をはこぶきまなども、うたわれている。
小雅「甫田(ほでん)」
曾孫(みすえ)の とりいれは 屋(やね)のごと、梁(はり)のごと、
曾孫の こめぐらは 陵(つか)のごと、丘のごと、
されば千の倉を求め よろずの車を求めよう
この黍(きび)稷(たかきび)稲(いね)粱(あわ)こそ 農夫のたまもの
神も大いなる福を報い いのちは永くかぎりなし。
こうして収穫がおわる。これらの穀物が、農民や農奴たちを養っていたのであった。
はるかにつづく大きな田(はたけ) 歳(とし)ごとにかぎりなき実り、
その古き余りをとって、 わが農夫どもを養おう。
また、「わが公田に降る雨を、わが私田にも及ぼしたまえ」(小雅「大田」)、とあるのは、領主の田(公田)と、農民の私有の田があったことを示している。
村落が分解しているさまを、うかがうことができよう。
このように村落が分解してゆけば、「社」でおこなわれた野外の舞踏よりも、領主の室内の宴楽のほうが重要になってくる。
そこでは歌合戦によって、つぎつぎに新しい即興の歌をつくる必要はなくなるであろう。
古くからの、きまった幾つかの歌が、くりかえし歌われれば、ことたりるのである。
そこから、歌謡の荒廃時代がはじまった。すでに世は、春秋時代である。
3 詩経の世界
6 祖のまつり
世はうつった。もはや歌われるのは、領主の土地の耕作と、その祖先の祭祀であった。
小雅「信南山」
つらなる南の山のほとり むかし禹の治めたところ
ひらきならした原や隰(さわ) 曾孫(みすえ)こそここに田(はたけ)つくる
境をくぎり 溝(みぞ)をほり 南に東に畝(うね)つくる。
おお空に 雲あつまり 雪はしんしんと落ち、
春は小雨(こさめ)も降りそえば しめり ゆたかに
うるおい たりて わが百穀は生(お)い出(い)でた。
境も畦(あぜ)も ととのって 黍(きび)も稷(たかきび)もふさふさ茂る
この曾孫(みすえ)のとりいれで 酒(みき)かもし 飯(いい)かしぎ、
尸(かたしろ=先祖の扮装をした巫)や賓(まろうど)にすすめれば いのちは千代(ちよ)に万代(よろずよ)に
畑にはだいこんが生(な)り 畦(あぜ)には 瓜(うり)が生り
その皮をむき酢(す)につけて 先祖(みおや)の霊(みたま)に供(そな)うれば、
曾孫のいのちこそ永く 天の幸(さいわい)をうけたまう。
清らけき酒(みき)を盛りて 赤牡(あかうし)の牲(にえ)をひきだし
なき父と先祖(みおや)にささげ 鈴の刀をとりて
耳の毛をぬき毛色を告げ 剖(さ)いてその血と脂(あぷら)をとる。
かく供え かくすすめ 香りは高く立ちのぼり
まつりめでたく整えば 先祖(みおや)こそ おごそかに
大きな福(さち)を報(むく)いたまい いのちは永くかぎりなし。
祭礼のときの祖先の尸(かたしろ)と祝(はふり=神主)との問答や、祭礼の順序をくわしくのべた詩もある。
また領主が田を見まわるとき、田には監督(かんとく)の者(田畯=でんじゅん)がいて、ひるには農婦たちが食物をはこぶきまなども、うたわれている。
小雅「甫田(ほでん)」
曾孫(みすえ)の とりいれは 屋(やね)のごと、梁(はり)のごと、
曾孫の こめぐらは 陵(つか)のごと、丘のごと、
されば千の倉を求め よろずの車を求めよう
この黍(きび)稷(たかきび)稲(いね)粱(あわ)こそ 農夫のたまもの
神も大いなる福を報い いのちは永くかぎりなし。
こうして収穫がおわる。これらの穀物が、農民や農奴たちを養っていたのであった。
はるかにつづく大きな田(はたけ) 歳(とし)ごとにかぎりなき実り、
その古き余りをとって、 わが農夫どもを養おう。
また、「わが公田に降る雨を、わが私田にも及ぼしたまえ」(小雅「大田」)、とあるのは、領主の田(公田)と、農民の私有の田があったことを示している。
村落が分解しているさまを、うかがうことができよう。
このように村落が分解してゆけば、「社」でおこなわれた野外の舞踏よりも、領主の室内の宴楽のほうが重要になってくる。
そこでは歌合戦によって、つぎつぎに新しい即興の歌をつくる必要はなくなるであろう。
古くからの、きまった幾つかの歌が、くりかえし歌われれば、ことたりるのである。
そこから、歌謡の荒廃時代がはじまった。すでに世は、春秋時代である。