『六朝と隋唐帝国 世界の歴史4』社会思想社、1974年
15 敦煌の秘宝
4 敦煌学の発展
さて石窟のなかには、めずらしい古文書の類がおさめられてあった。
これらの文書のうち、もっともあたらしいものは、十世紀の末(九九六)のものであった。
おりから宋代の初期であり、敦煌には西夏(せいか=タングート族)が侵入したころにあたっている。
そこで西夏が攻めてくると聞いて、文書類を封じこめたもの、と推定することができよう。
その内容は、ほとんど九割以上が仏教の経典であった。
これは敦惶の諸寺院が蔵していた経典、と考えられる。
しかし仏典のほかに、寺院経営の記録や祈願文(きがんもん)、さらに一般の書物や、公私の文書類もふくまれていた。
これまでは唐代の歴史を研究するにあたって、唐代のなまの資料がなかったから、ほとんど後世になって編纂(へんさん)されたものによって研究してきたのであった。
しかし敦煌の文献があらわれたことによって、なまの資料による研究が可能となる。
それだけではない。
唐代以前の歴史の研究につかう資料も、これまでは宋代から以後のもの、つまり印刷されたものに頼っていた。
木版印刷が発明される前は、書物といっても筆写によって伝えられたのである。
これを紗本(しょうほん)という。
宋代になって木版印刷が発明されると、これらの紗本をぞくぞく印刷し、普及させた。
そうして古い紗本は、たいていほろんでしまったから、印刷されたものによって研究するほかはなかった。
ところが敦煌からは、唐代の紗本がでてきたのである。印刷されたものではない。
唐代以前の研究も、こうした古い紗本によって再検討してみなければならなくなった。
そこで敦煌の古文書によって研究していく分野がひらかれた。これが「敦煌学」である。
いわゆる敦煌学の世界において、いちばん最初の成果は、藤田豊八の『慧超伝(えちょうでん)箋釈(せんしゃく)』である。
これは一九一〇年(明治四十三年)に北京で初版が刊行された。慧超は新羅(しらぎ)の僧で、玄宗のときに唐に留学していた。
かれがインドに旅行し、ブッダの旧蹟を巡拝したときの紀行文が慧超伝で、正しくは「慧超往(えちょうおう)五天竺国(五てんじくこく)伝(でん)」という。
この書物は早く散逸していたのを、ペリオが敦煌から発見し、その写真を北京におくったのを、羅振玉(らしんぎょく)が『敦煌石室遺書』におさめた。
それにもとづいて藤田が研究し、慧超伝の注釈をつくったのが『慧超伝箋釈』なのである。
この書物は大いに当時の学者を剌激し、敦煌学の隆昌する基礎をつくった。
そののち敦煌学は、歴史学の分野だけでなく、言語学や宗教学、さらに文学や芸術などの分野へと発展していった。
古文書のなかには、チベット語やホータン語などの文献も、ふくまれていたのである。
儒教の経典である五経についても、易・書・詩・礼記・春秋のすべてにわたって、なんらかの資料が敦煌文献のなかにあり、その文字を校訂するのにやくだっている。
歴史の書物では、史記と漢書が、その注釈とともに、一部分ではあるが発見された。
この二書が、唐代ではどのようになっていたか、それを推測する手がかりがあたえられる。
地理書についても「貞元(ていげん)十道録」という唐代の地理書の残巻が、わずか十六行ではあるけれども、ペリオ文書のなかにおさめられている。
また「沙州都督府図経」と題する地理書の残巻も、またペリオ文書にある。
このほか敦煌の戸籍をはじめ、唐代の法律である律令格式も、部分的にでており、この方面の研究の貴重な資料となった。
また本草(ほんぞう)書(薬学の本)、数学や暦学の書物など、日常生活に必要なものも発見されている。
老子・列子・抱朴子(ほうぼくし)など諸子の書物や、則天武后の革命のことを予言したといわれる「大雲経(だいうんきょう)」の注釈もスタイン文書にあり、マニ教の経典や景教の「大秦景教三威蒙度讃」などもペリオ文書におさめられている。
文学の方面では「変文(へんぶん)」という俗文学資料があらわれ、研究が活発である。
変文とは、大衆を相手にして、仏教説話を題材として聞かせたものであり、これは中国の口語文学史上に重要な意味をもつものであった。
「目蓮(もくれん)変文」のような盂蘭盆(うらぼん)における祖先崇拝の話をあつかったものや、「王陵変文」のように一般の史実にもとづいてつくったものなどが、スタイン、ペリオ両文書中に見える。
また「曲調」とか「曲子詞(きょくしし)」とよばれて、音楽にあわせてうたう一種の通俗的な歌曲もある。
15 敦煌の秘宝
4 敦煌学の発展
さて石窟のなかには、めずらしい古文書の類がおさめられてあった。
これらの文書のうち、もっともあたらしいものは、十世紀の末(九九六)のものであった。
おりから宋代の初期であり、敦煌には西夏(せいか=タングート族)が侵入したころにあたっている。
そこで西夏が攻めてくると聞いて、文書類を封じこめたもの、と推定することができよう。
その内容は、ほとんど九割以上が仏教の経典であった。
これは敦惶の諸寺院が蔵していた経典、と考えられる。
しかし仏典のほかに、寺院経営の記録や祈願文(きがんもん)、さらに一般の書物や、公私の文書類もふくまれていた。
これまでは唐代の歴史を研究するにあたって、唐代のなまの資料がなかったから、ほとんど後世になって編纂(へんさん)されたものによって研究してきたのであった。
しかし敦煌の文献があらわれたことによって、なまの資料による研究が可能となる。
それだけではない。
唐代以前の歴史の研究につかう資料も、これまでは宋代から以後のもの、つまり印刷されたものに頼っていた。
木版印刷が発明される前は、書物といっても筆写によって伝えられたのである。
これを紗本(しょうほん)という。
宋代になって木版印刷が発明されると、これらの紗本をぞくぞく印刷し、普及させた。
そうして古い紗本は、たいていほろんでしまったから、印刷されたものによって研究するほかはなかった。
ところが敦煌からは、唐代の紗本がでてきたのである。印刷されたものではない。
唐代以前の研究も、こうした古い紗本によって再検討してみなければならなくなった。
そこで敦煌の古文書によって研究していく分野がひらかれた。これが「敦煌学」である。
いわゆる敦煌学の世界において、いちばん最初の成果は、藤田豊八の『慧超伝(えちょうでん)箋釈(せんしゃく)』である。
これは一九一〇年(明治四十三年)に北京で初版が刊行された。慧超は新羅(しらぎ)の僧で、玄宗のときに唐に留学していた。
かれがインドに旅行し、ブッダの旧蹟を巡拝したときの紀行文が慧超伝で、正しくは「慧超往(えちょうおう)五天竺国(五てんじくこく)伝(でん)」という。
この書物は早く散逸していたのを、ペリオが敦煌から発見し、その写真を北京におくったのを、羅振玉(らしんぎょく)が『敦煌石室遺書』におさめた。
それにもとづいて藤田が研究し、慧超伝の注釈をつくったのが『慧超伝箋釈』なのである。
この書物は大いに当時の学者を剌激し、敦煌学の隆昌する基礎をつくった。
そののち敦煌学は、歴史学の分野だけでなく、言語学や宗教学、さらに文学や芸術などの分野へと発展していった。
古文書のなかには、チベット語やホータン語などの文献も、ふくまれていたのである。
儒教の経典である五経についても、易・書・詩・礼記・春秋のすべてにわたって、なんらかの資料が敦煌文献のなかにあり、その文字を校訂するのにやくだっている。
歴史の書物では、史記と漢書が、その注釈とともに、一部分ではあるが発見された。
この二書が、唐代ではどのようになっていたか、それを推測する手がかりがあたえられる。
地理書についても「貞元(ていげん)十道録」という唐代の地理書の残巻が、わずか十六行ではあるけれども、ペリオ文書のなかにおさめられている。
また「沙州都督府図経」と題する地理書の残巻も、またペリオ文書にある。
このほか敦煌の戸籍をはじめ、唐代の法律である律令格式も、部分的にでており、この方面の研究の貴重な資料となった。
また本草(ほんぞう)書(薬学の本)、数学や暦学の書物など、日常生活に必要なものも発見されている。
老子・列子・抱朴子(ほうぼくし)など諸子の書物や、則天武后の革命のことを予言したといわれる「大雲経(だいうんきょう)」の注釈もスタイン文書にあり、マニ教の経典や景教の「大秦景教三威蒙度讃」などもペリオ文書におさめられている。
文学の方面では「変文(へんぶん)」という俗文学資料があらわれ、研究が活発である。
変文とは、大衆を相手にして、仏教説話を題材として聞かせたものであり、これは中国の口語文学史上に重要な意味をもつものであった。
「目蓮(もくれん)変文」のような盂蘭盆(うらぼん)における祖先崇拝の話をあつかったものや、「王陵変文」のように一般の史実にもとづいてつくったものなどが、スタイン、ペリオ両文書中に見える。
また「曲調」とか「曲子詞(きょくしし)」とよばれて、音楽にあわせてうたう一種の通俗的な歌曲もある。