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6-11-2 内憂と外冦

2023-08-01 05:40:40 | 世界史
『宋朝とモンゴル 世界の歴史6』社会思想社、1974年
11 悲劇の朝鮮半島
2 内憂と外冦

 そもそも半島に「高麗」が建国したのは、十世紀のはじめ(九一八)のことであった。
 それまで二百年ちかくにわたって統一国家を維持してきた新羅も、九世紀には国勢がおとろえる。
 国内のあちこちに一揆がおこり、反乱があいつぎ、これに乗じて各地の有力者が立ちあがった。
 半島は騒乱のちまたとなり、北部に、また西部に、新しい国が建てられた。
 九世紀の末、すでに新羅は、半島の南部のみをたもつ小国にすぎなかった。
 動乱のなかから、ひとりの英傑があらわれた。王建(おうけん)である。
 国を建てて高麗と号し、しだいに勢力をひろげた。ついに新羅王も、これに降伏する(九三五)。
 半島の統一が完成したのは、その翌年であった(九三六)。
 高麗は、その内政をととのえるとともに、その勢力を北方へのばした。
 そして建国から百年にして、領上の北境は鴨緑江(おうりょくこう)におよんだ。
 そこに、女真人(ツングース族)の住地である。
 ところが、すでにこの地方に対して、北方から契丹(遼)の進出が行われていた。
 高麗の北進は、契丹との衝突をまねく。契丹は大軍をさしむけて、高麗をおびやかした。
 ついに高麗は、契丹に服属することをちかって、ようやく北方の領土をたもった(一〇一九)。
 それから百年あまりたった。
 満州の奥地からおこった女真人の一勢力は、にわかに強大となって、「金」国を建てた。
 そして契丹人の遼をほろぼし、さらには宋も攻めて、これを中国大陸の南方へと追った。
 高麗も、今度は金への服属をちかわねばならなかった(一二一六)。
 しかし北方からの圧迫はあっても、王城となった開京は、にぎにぎしく栄えた。
 そこは百年にわたって首都としての造営が行われ、かぞえきれぬほどの人民が動員された。
 いかめしい城壁のなかには、王宮や、貴族の邸宅や、官庁や、寺院が、たちならんだ。
 それは、まさしく王公や貴族たちの都であった。高宗も、元宗も、この開京でそだったのである。
 しかし元宗が、はなやかな王宮のなかで少年の時代をすごしていたころ、その父の高宗は、王ではあっても権力はなかった。
 実権をにぎっていたのは、武人であった。
 いや、高麗の政治には、初めから権力の争いがともなっていたのである。

 政治をうごかしたのは、初めのころは貴族たちであった。
 貴族たちの争いのなかで、二代と三代と四代の王は、非命に倒れた。第八代の王も殺された。
 しかも貴族たちが権力の争いをくりかえし、ほしいままに栄華の暮らしをおくっていたとき、その背後から力をもたげてきたのが、武人であった。
 武人たちは、さげすまれていた。しかし武力があった。
 十二世紀の後半(一一七〇)にいたり、ついに武人は実力をもって立ちあがった。
 貴族たちを殺し、文官を根こそぎ殺して、政権をにぎった。
 武人の力は王城のなかだけではない。地方にもおよんだ。
 おもな役職は、ことごとく武人がにぎっていた。
 ちょうど日本では、平氏が政権をにぎったころのことである。
 もちろん武人たちのあいだでも、争いはたえない。たがいに殺しあった。
 そのなかから最後に権力を占めたのが、崔(さい)氏であった(一一九六)。
 こうして実権は崔氏のものとなった。
 わが国で鎌倉幕府がたてられてから、およそ十年ほど後のことである。
 崔氏の政権のもとで、モンゴルの侵略がおこった。
 その最初の侵入は、オゴタイが大汗となってから三年目、高麗では高宗の十八年にあたる(一二三二)。
 モンゴルの大軍は鴨緑江をわたって、たちまち開京の城下にせまった。
 高麗は降伏をこうた。
 そして、降伏の実をしめすために莫大な金品をたてまつり、西北の諸城にはモンゴルの代官をおくことを認めさせられた。
 モンゴルが、その占領地におく代官のことをダルガチという。
 その地方の民政を監督するもので、絶大な権力をふるった。
 ところが高麗は、いったん降伏して臣属をちかったものの、モンゴルからの金品の要求は、きわまるところを知らぬほどである。
 降伏の翌年(一二三二)には、水獺(かわうそ)の皮一千枚のほか、王族や大官の童男、童女おのおの五百人、そして各種の工匠をもとめてきた。
 さらにはダルガチの横暴も、目にあまるものがある。
 ついに高麗の宮廷は、モンゴルにそむくことを決意した。
 モンゴルの兵をさけるために、都を江華島にうつす。
 モンゴル軍は騎馬の部隊であるから、海はわたれない。島に逃げこめば安全なわけであった。

 人民たちにも、村をすてて山のなかへ、あるいは島のなかに逃げこむことを命じた。
 こうした決定か、崔氏によってなされたことは、いうまでもない。
 七月、遷都が決行された。西北の諸城では、ダルガチを襲って、その武器をうばい、危害をくわえた。
 こうして高麗は、国をあげて抵抗をこころみたのである。
 モンゴルは怒った。ふたたび大兵をさしむけた。
 このときモンゴル兵の先払いをしたのが、前年の侵入のときに降伏した洪福源であった。
 洪福源は高麗人ながら、いちはやくモンゴル軍に投じ、こののちはモンゴルの臣として、祖国に対する進攻に大きな働きをしめす。
 その子の茶丘(さきゅう)も父のあとをうけて祖国に弓をひき、日本遠征には司令官をつとめた。
 さてモンゴル軍は、江都の宮廷に対して、島を出ることを要求する。もちろん効果はない。
 しからば、というわけで、モンゴル軍は半島の南部に兵を進めた。
 半島の村という村が、モンゴルの軍馬でふみにじられる惨劇が、これより始まった。




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