『アジア専制帝国 世界の歴史8』社会思想社、1974年
7 李氏朝鮮の建国
2 新王朝の創始
さて高麗の宮廷は、いよいよ明朝に対して行動をおこす。
大軍を発して満州の地を攻めとろう、というのである。
一三八八年(洪武二一)、国王の辛禑(しんぐう)みずから、宰相たちとともに開京を出て、平壞にうつった。
李成桂らは数万の大軍をひきいて、遼東にむかった。
李成桂は、明朝と戦かうことに反対であった。
文官たちのなかにも、明朝にしたがうことを主張する者は、すくなくない。
しかし国王を取りまく大官たちは、あくまでも元朝にしたがおうとしている。
兵士たちも、戦争をきらった。逃亡する者も、あいついだ。
それでも軍は北進をつづけ、鴨緑江をわたって、江中の威化島にいたった。
厭戦(えんせん)の気分は高まるばかりである。
ついに李成桂は、専断をもって進軍の中止を決意した。
そのまま軍をかえす。軍のむかうところは、遼東ならぬ開京となった。
こうして大軍をにぎって入京した李成桂は、クーデターを断行した。
国王を廃して、その子の辛昌(三十三代)を立て、親元派の高官たちを追放した。
李成桂は「反元(はんげん)・向明(こうみん)」(元朝に背いて明朝に従う)の政策を、はっきりかかげた。
そして思いきった内政の改革にのりだした。もっとも重要なものが、田制の改革であった。
高麗では、国王や王族をはじめ、貴族の大官たちは、広大な荘園を私有していた。
そこから取りたてる年貢によって、かれらは豪奢な暮らしを楽しんできたのであった。
ところで荘園がふえると、それだけ国庫の収入がすくなくなる。
あげての果てには、まんぞくに俸禄のもらえない文官や兵士がでてくる。
もちろん、この連中は不平がいっぱいであった。
田制の改革は、こうした階層によって、つよく望まれていた。
下級の文官のなかには、儒学の教養をもった者も多かった。
新興の官僚であるから、高官たちのような荘園もない。
そうして朱子学の名分論を奉じているから、夷狄(いてき)の支配する元朝には反対である。
中華の王朝としては明朝を正統なものと考え、これにしたがうことを主張した。
つまり高官たちは、向元の政策をとることによって、不平分子をおさえるとともに、自分たちの広大な荘園をまもろうとしたわけである。
そうした体制をくつがえしたのが、李成桂のクーデターであった。
いまや軍と官との期待をになって、李成桂は改革をすすめた。
反対派の荘園は没収された。
その上で、文武の官人や兵士たちには、地位に応じて田地が支給された。
あたらしく支給された目地は、世襲することがゆるされた。
こうして、これからのち文武の官人は、地主としての性格をつよめ、官僚階層を形成することになるのである。
田制の改革がおこなわれたのは、一三九〇年のことであった。
それまでには国王の辛昌も廃され、王族のなかから恭譲王がむかえられている。
これとても李成桂の上で虚位を擁するにすぎなかった。
改革に成功した李成柱は、一三九二年七月、恭譲王にかわって国王の位につく。
そしてあたらしい王朝をはじめた。
李成桂はさっそく革命のことを、明朝に報告した。
そして洪武帝の勅許をえて、あたらしい国号を「朝鮮」と定めた。
朝鮮とは、中国からみて東方の日の出るところの意味である。
同時に、半島の地(西北部)にはじめて開かれた国家の名称であった。
その昔、漢の武帝が半島の西北部を経略したとき(前一〇八)、そこには衛(えい)氏の建てた「朝鮮」国があった。
さらに衛氏の建国にさきだっては(前二世紀のはじめ)箕子(きし)の「朝鮮」国があったという。
このように朝鮮という国名は、ふるい由来をもっている。
しかも高麗の末期になると、いっそう古くさかのぼった建国説話がつくりだされた。
すなわち檀(だん)君の朝鮮である。
檀君が建国したのは中国でいえば尭(ぎょう)の時代で、それより世を治めること一千五百年、周の武王が、箕子を朝鮮に封じたので、檀君は隠退して神になったという。
世を去ったとき、一千九百八歳であった。
こうした建国説話がつくられたのは、元朝の支配時代である。
モンゴル人の圧政にあえぎながらも、いや、それゆえにこそ半島の人びとは、自分たちの国家と民族の由来について、こうした説話を生みだしたのであった。
李成挂が用いた「朝鮮」の国号には、かれらの民族意識の高まりが背景をなしていた、といえよう。
ちなみに、いまの大韓民国も、その紀元を檀君にもとめている。
韓国の紀年によれば、一九七四年は檀紀(だんき)四千三百七年である。