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アロイジオ・デルコル神父『十六のかんむり 長崎十六殉教者』、3

2016-10-31 02:59:45 | 日本キリスト教史
アロイジオ・デルコル神父『十六のかんむり 長崎十六殉教者』、3

 マニラの日本人町にたくさんの信者がいました。ラザロと洗礼名でよばれた京都出身の信者も、そのなかのひとりです。

 かれは、日本では、あの悲惨ならい病患者のひとりでした。いみきらわれるらい病患者たちは、町から村から追いだされて、生きるすべさえありません。ちょっとでも人里に近よれば、すぐ石がとんできます。でも、あるとき、かれらを宣教師がひろいあげて、献身的な世話をしました。そればかりではありません。みんな信者になれたのです。

 これをみた当時の将軍(1632年)徳川家光は、きたない人たちを掃除するよい口実ができたと大よろこび、132名もの信者のらい病患者を船につめこんで、マニラにおくり出しました。かれは、”だれが、こんなやっかいな病人をうけいれるものか、向こうへいったら、みな殺しにきまっている”と思っていたのです。

 ところがどうでしょう!フィリッピンのスペイン人たちは、かれららい患者を歓迎し、いたれりつくせりの介抱です。どれほど手あつい世話であったかは、このらい病から多くの人が、いやされたことをみてもわかると思います。

 あれから、もう4年がすぎていました。ラザロのほほには、病いのかげさえありません。かれは、日本行きの船にのりこもうとするドミニコ会宣教師のまえにきました。

 ひざまずき、それから頭を地にすりつけていいました、「どうぞ、わたしもお連れください。日本人は、わたしの兄弟です。伝道士になって、日本人に救い主のことを教えてあげたいのです。」

 「でも、いのちは、保証できませんよ」

 「いいえ、神父さま、ご心配なさいますな、日本に帰るからには、もとより死は覚悟しています。」

 そこで宣教師たちは、よろこんでラザロの申し出をうけいれました。

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