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[沈黙批判]フェデリコ・バルバロ神父、アロイジロ・デルコル神父共著『キリスト者の信条 踏絵について』、2-5

2017-01-14 03:07:08 | 遠藤周作批判
フェデリコ・バルバロ神父、アロイジロ・デルコル神父共著『キリスト者の信条 踏絵について』

◆2-5、キリスト者の信条  踏絵 (デルコル神父)

 私は、遠藤周作氏があのような記事を書いたのは、残念なことだと思う。しかし、それにもまして残念でならないのは、その記事が、カトリック新聞にでたことである。しかもそれは、著名なある聖職者の提供である。

 一般読者は、これをよんで、どんな印象をうけるだろうか?”やっぱり、教会がこれまで、きびしく教えていたことは古かった。現代の要求に合わせるためには、キリストの教えさえ「進歩させる」必要があるなあ”と考えただろうか?

 それは、遠藤周作氏の小説「沈黙」がはじめて出版されたおり、カトリック新聞の読者の「声」の欄にのった記事をみてもよくわかることである。

 私は、カトリック新聞の編集部にも、これを提供した聖職者にも、この点について賛成できない。そこで、ここに、聖パウロのことばをくりかえしたいと思う。あの記事にでた考えかたは、
「福音というべきものではない。ただ、ある人々が、あなたたちをまどわして、キリストの福音を変えようとしている。しかし、私たち自身であるにせよ、天からの天使であるにせよ、私たちが、あなたたちに伝えたのとはちがう福音をつげるものには、のろいあれ。私は、まえにいったことを、いまくりかえす。あなたたちが受けたのとはちがう福音をつげるものには、のろいあれ。

 私はいま、人の賛成を求めようとするのか。あるいは、それとも、神のみ旨を求めようとするのか。あるいは、人にとりいろうとつとめているのか。私が、いまも人にとりいろうとしているのなら、私は、キリストのどれいではない」(ガラツィア1・7-10)。


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