アロイジオ・デルコル神父 江藤きみえ訳『十六のかんむり 長崎十六殉教者』、2
3人は、もうすでに日本語の勉強をはじめていました。でも、話して通じるのは、まだミゲル神父さまひとりだけです。
さいわい、マニラには、ただひとりだけ日本人の神父さまがいました。長崎生まれのかれが、どうしてここにいたかを、まず話しましょう。
この神父さまのひじょうに信仰心のあつい両親は、7名の子どもの末っ子として生まれたかれを、神にささげました。かしこいかれは、11才で浦上のセミナリオ(小神学校)に入学し、のちにマカオに留学しました。でも日本に帰ったときは、迫害のまっさいちゅうです。かれは、やっと役人の手をのがれて、マニラににげ帰ると、ここで神父さまになりました。
学問にひいでていたかれは、そのとき、日本人神学校で教えていたのでした。この日本人神学生たちは、日本に帰ったら死ぬ運命にあります。なんときびしい道でしょう。それで、かれのはげましは、とても貴重でした。
そんなかれに、あの3人の宣教師がさそいをかけました、「いのちが危険にさらされるのですから、とてもいいにくいが、もしあなたが、いっしょに日本にきてくださるなら,どんなに助かるかわかりません」と。かれは、そのとき静かに画をかいていました。血なまぐさし、日本にくらべるなら、ここは、なんと平和でしょう。
でも、筆をおくと、かれは、にっこりほおえんで、明るい声で答えました。
「よろこんで、おともします。もちろん、天国にもですよ」と。
まず第一にかれがしたことは、イエズス会からドミニコ合にうつったことです。ルイス(=アロイジオ)塩塚とよばれるこの人は、修道名をこのときから、クルスのヴィセンテ(十字架のヴィンセンシオ)と名のりました。
3人は、もうすでに日本語の勉強をはじめていました。でも、話して通じるのは、まだミゲル神父さまひとりだけです。
さいわい、マニラには、ただひとりだけ日本人の神父さまがいました。長崎生まれのかれが、どうしてここにいたかを、まず話しましょう。
この神父さまのひじょうに信仰心のあつい両親は、7名の子どもの末っ子として生まれたかれを、神にささげました。かしこいかれは、11才で浦上のセミナリオ(小神学校)に入学し、のちにマカオに留学しました。でも日本に帰ったときは、迫害のまっさいちゅうです。かれは、やっと役人の手をのがれて、マニラににげ帰ると、ここで神父さまになりました。
学問にひいでていたかれは、そのとき、日本人神学校で教えていたのでした。この日本人神学生たちは、日本に帰ったら死ぬ運命にあります。なんときびしい道でしょう。それで、かれのはげましは、とても貴重でした。
そんなかれに、あの3人の宣教師がさそいをかけました、「いのちが危険にさらされるのですから、とてもいいにくいが、もしあなたが、いっしょに日本にきてくださるなら,どんなに助かるかわかりません」と。かれは、そのとき静かに画をかいていました。血なまぐさし、日本にくらべるなら、ここは、なんと平和でしょう。
でも、筆をおくと、かれは、にっこりほおえんで、明るい声で答えました。
「よろこんで、おともします。もちろん、天国にもですよ」と。
まず第一にかれがしたことは、イエズス会からドミニコ合にうつったことです。ルイス(=アロイジオ)塩塚とよばれるこの人は、修道名をこのときから、クルスのヴィセンテ(十字架のヴィンセンシオ)と名のりました。