『アジア専制帝国 世界の歴史8』社会思想社、1974年
1 大明帝国の成立
1 南風と北風
一三六七年十月、無法地帯と化していた江南では、二十五万の大軍が華北にむかって動きだした。
それは、ならび立つ諸将をたおし、長江(揚子江)下流域を制圧した朱元璋(しゅげんしょう)配下の大軍である。
これをひきいるのは朱元璋の片腕、紅軍きっての名将といわれる征虜大将軍の徐達と、副将軍の常遇春であった。
めざすは元朝が首都とする大都(いまの北京)である。
モンゴルのような北方の騎馬民族が本領とするところは、機動力を利用する迅速、かつ果敢な軍事行動にあった。
かつて、その力をおもうままに発揮して、南方の農耕社会を制圧したのが、モンゴル民族の大元王朝であった。
中国史上はじめてのことである。蒙古・色目・漢人・南人の序列がものがたるように、武を第一とするモンゴル「大元」の北風は、狂気のように吹きまくり、文を第一とする農耕民族の南風を圧しつづけた。
しかし、その北風も、ついにしりぞけられるときをむかえたのである。
雌伏(しふく)九十年、江南の地に発生した南風は、いまや巨大な台風と化して、破竹のような北上を開始した。
山東へ、河南へ、そして大都へと、まさに南風は北風を圧する時代の到来である。
一三六八年の元旦、勝利の朗報を耳にしながら、朱元璋は、新装なった南京応天府で皇帝の位についた。
「大明(だいみん)」の国号は、あかるい平和を約束するようであり、「洪武」の年号は、戦勝をたたえるかのようであった。
中国の元(げん)→明(みん)→清(しん)は
北風→南風→北風と変る政変であった。
そのころの朱元璋、すなわち明朝の建国者たる太祖洪武帝の意気ごみは、北征軍の出発にさきだって、江北の各地に発した檄文(げきぶん)のなかに、よくあらわれている。
「むかしから、天下の帝王たる者は、みな中国のなかにいて、周囲の夷狄(いてき=野蛮人)を心服させ、夷狄はまた中国の外にあって、中国の帝王に服すべきものとされている。
夷狄が中国のなかにはいって天下を治めるなどということは、聞いたことがない。
元が夷狄の身で中国に入り、中国の主となるのは筋ちがいといわざるをえない。
むかしから“胡虜に百年の運なし”という。
人心が離反して天下の兵おこる現状は、この言葉の誤りでないことをものがたる。
この時にあたり、天運めぐって、中原の気さかんとなり、中華万民のなかからは、胡虜をしりぞけ、中華を回復し、綱紀を立てなおして万民を救済する聖人が出現しようとしている。
いま、江北の各地に数人の雄ありといえども、中国祖宗の姓をわすれ、禽獣にもひとしい胡虜の名をうけ、美称と考えている。
私腹をこやし、兵権をほしいままにし、たがいに争うかれらには民を庇護(ひご)する意志はなく、かえって民生に巨害をくわえる徒輩である。もとより華夏の主となりうる者ではない。
かくいう自分は、もと江北淮右(安微省の濠州)の貧農である。
天下の大乱によって、衆に推され、軍をひきいて南下し、長江をわたって形勝の地たる金陵(南京)にきた。
爾来十有三年、西は巴蜀(はしょく=四川)、東は滄海(そうかい)、南は閩越(びんえつ=福建)にわたる華中の地は、ことごとくわが手中にある。
民の生活はしだいに安定し、食糧も足りはじめてきている。
精兵もようやくととのったいま、自分がもっとも心痛しているのは、中原の民に主なく、民心の不安な現状である。
自分はいま天命を拝受しながら、自分だけの安定にとどまっていようとは思わない。
さらに軍を北に進め、群虜を駆逐して、民を塗炭(とたん)の苦しみから救い、中国の風儀を回復しようと思う。
その際、江北の民が自分の志を知らず、かえってわが軍に仇(あだ)をなし、北走するのを心配して、北征にさきだち、まずわが意を布告する。
わが軍が至れば、民人これを避けることなかれ。
わが号令は厳粛にして、いささかも民を犯すことはない。
われに帰服する者は中華に安住をえ、われにそむく者は塞外(さいがい)に逃れざるをえないであろう。
おもうにわが中国の民は、天がかならず中国の人に命じて、これを安堵させるはずである。
どうして夷狄(いてき)が、これを治めるはずがあろう。
蒙古・色目の輩(やから)は、もとより中国の族類ではない。
しかし同じく天地の間に生をうけたものである。
よく礼儀を知る者ならば、わが臣民となし、中夏の人を撫養するのと、ことなるところは決してない。」
この檄文は、朱元璋の側近にあった学者、宋濂(そうれん)の手になるものであると伝えられる。
名もない一介の貧農の家に生まれ、疫病に父母をうしなって離散の憂き目にあい、どん底の苦しみのなかからはいあがったのが朱元璋である。
托鉢(たくはつ)の乞食坊主をしながら放浪し、紅巾(こうきん)軍に身を投じたかれが、中華の皇帝になることを、だれが予想したであろうか。
彼自身、夢想だにしなかったことにちがいない。
北風のあらしは、文盲の朱元璋を、天下の理を説く南風のにない手にまでのしあげた。
たとえ宋濂が書いた檄文とはいえ、その名声を耳にして、隠遁の身を幕中に召したのは朱元璋である。
文治は武断よりも強く、迷信よりも強い。
学者の登用は、朱元璋の目を天下にむけて開かせた。
「中華の回復」「胡虜に百年の運なし」、とは宋濂が代弁する朱元璋の心意気であった。
1 大明帝国の成立
1 南風と北風
一三六七年十月、無法地帯と化していた江南では、二十五万の大軍が華北にむかって動きだした。
それは、ならび立つ諸将をたおし、長江(揚子江)下流域を制圧した朱元璋(しゅげんしょう)配下の大軍である。
これをひきいるのは朱元璋の片腕、紅軍きっての名将といわれる征虜大将軍の徐達と、副将軍の常遇春であった。
めざすは元朝が首都とする大都(いまの北京)である。
モンゴルのような北方の騎馬民族が本領とするところは、機動力を利用する迅速、かつ果敢な軍事行動にあった。
かつて、その力をおもうままに発揮して、南方の農耕社会を制圧したのが、モンゴル民族の大元王朝であった。
中国史上はじめてのことである。蒙古・色目・漢人・南人の序列がものがたるように、武を第一とするモンゴル「大元」の北風は、狂気のように吹きまくり、文を第一とする農耕民族の南風を圧しつづけた。
しかし、その北風も、ついにしりぞけられるときをむかえたのである。
雌伏(しふく)九十年、江南の地に発生した南風は、いまや巨大な台風と化して、破竹のような北上を開始した。
山東へ、河南へ、そして大都へと、まさに南風は北風を圧する時代の到来である。
一三六八年の元旦、勝利の朗報を耳にしながら、朱元璋は、新装なった南京応天府で皇帝の位についた。
「大明(だいみん)」の国号は、あかるい平和を約束するようであり、「洪武」の年号は、戦勝をたたえるかのようであった。
中国の元(げん)→明(みん)→清(しん)は
北風→南風→北風と変る政変であった。
そのころの朱元璋、すなわち明朝の建国者たる太祖洪武帝の意気ごみは、北征軍の出発にさきだって、江北の各地に発した檄文(げきぶん)のなかに、よくあらわれている。
「むかしから、天下の帝王たる者は、みな中国のなかにいて、周囲の夷狄(いてき=野蛮人)を心服させ、夷狄はまた中国の外にあって、中国の帝王に服すべきものとされている。
夷狄が中国のなかにはいって天下を治めるなどということは、聞いたことがない。
元が夷狄の身で中国に入り、中国の主となるのは筋ちがいといわざるをえない。
むかしから“胡虜に百年の運なし”という。
人心が離反して天下の兵おこる現状は、この言葉の誤りでないことをものがたる。
この時にあたり、天運めぐって、中原の気さかんとなり、中華万民のなかからは、胡虜をしりぞけ、中華を回復し、綱紀を立てなおして万民を救済する聖人が出現しようとしている。
いま、江北の各地に数人の雄ありといえども、中国祖宗の姓をわすれ、禽獣にもひとしい胡虜の名をうけ、美称と考えている。
私腹をこやし、兵権をほしいままにし、たがいに争うかれらには民を庇護(ひご)する意志はなく、かえって民生に巨害をくわえる徒輩である。もとより華夏の主となりうる者ではない。
かくいう自分は、もと江北淮右(安微省の濠州)の貧農である。
天下の大乱によって、衆に推され、軍をひきいて南下し、長江をわたって形勝の地たる金陵(南京)にきた。
爾来十有三年、西は巴蜀(はしょく=四川)、東は滄海(そうかい)、南は閩越(びんえつ=福建)にわたる華中の地は、ことごとくわが手中にある。
民の生活はしだいに安定し、食糧も足りはじめてきている。
精兵もようやくととのったいま、自分がもっとも心痛しているのは、中原の民に主なく、民心の不安な現状である。
自分はいま天命を拝受しながら、自分だけの安定にとどまっていようとは思わない。
さらに軍を北に進め、群虜を駆逐して、民を塗炭(とたん)の苦しみから救い、中国の風儀を回復しようと思う。
その際、江北の民が自分の志を知らず、かえってわが軍に仇(あだ)をなし、北走するのを心配して、北征にさきだち、まずわが意を布告する。
わが軍が至れば、民人これを避けることなかれ。
わが号令は厳粛にして、いささかも民を犯すことはない。
われに帰服する者は中華に安住をえ、われにそむく者は塞外(さいがい)に逃れざるをえないであろう。
おもうにわが中国の民は、天がかならず中国の人に命じて、これを安堵させるはずである。
どうして夷狄(いてき)が、これを治めるはずがあろう。
蒙古・色目の輩(やから)は、もとより中国の族類ではない。
しかし同じく天地の間に生をうけたものである。
よく礼儀を知る者ならば、わが臣民となし、中夏の人を撫養するのと、ことなるところは決してない。」
この檄文は、朱元璋の側近にあった学者、宋濂(そうれん)の手になるものであると伝えられる。
名もない一介の貧農の家に生まれ、疫病に父母をうしなって離散の憂き目にあい、どん底の苦しみのなかからはいあがったのが朱元璋である。
托鉢(たくはつ)の乞食坊主をしながら放浪し、紅巾(こうきん)軍に身を投じたかれが、中華の皇帝になることを、だれが予想したであろうか。
彼自身、夢想だにしなかったことにちがいない。
北風のあらしは、文盲の朱元璋を、天下の理を説く南風のにない手にまでのしあげた。
たとえ宋濂が書いた檄文とはいえ、その名声を耳にして、隠遁の身を幕中に召したのは朱元璋である。
文治は武断よりも強く、迷信よりも強い。
学者の登用は、朱元璋の目を天下にむけて開かせた。
「中華の回復」「胡虜に百年の運なし」、とは宋濂が代弁する朱元璋の心意気であった。