M.シュナウザー・チェルト君のパパ、「てつんどの独り言」 

「チェルト君のひとりごと」は電子ブックへ移りましたhttp://forkn.jp/book/4496

ティラーノ、雨の半日

2016-10-09 | 2016 イタリア

 今回も天候には恵まれた。6月下旬から7月中旬を、旅の期間に選んでいる訳は、ここにある。日本の梅雨のいやな時期を、スカッと晴れ上がったイタリアで過ごすのが目的。ジュン・ブライドという言葉が日本に入ってきているが、その意味は、正確には理解されていない。ヨーロッパでは、晴れたこの季節に結婚式を挙げようという願いがこもっている。



 <ティラーノの地図>

 イタリアと南部スイス・アルプスを楽しむために選んだ拠点、ティラーノの町について書いておこう。一言でいえば、小さな田舎町だけれど、とてもいい感じの町だった。

 位置的には、ロンバルディア州(ミラノが州都)の一番北の貧しい谷、ヴァルテリーナ谷の入り口だ。ミラノからの鉄道の終点、そこがティラーノだ。



 <Valtellina>

 基本的には貧しい土地。北国の寒さもあるし、急峻な岩山のすそ野を流れるアッダ川にそっている狭い谷で、平な豊かな土地はないから小麦粉は作れない。昔から、日本の信州のように、山の畑で作ることが出来るソバが小麦の代わりに使われていた。だから、蕎麦粉でうったパスタがある。あとは、岩を組んで作った段々畑でワインの製造をして生きている。だから、ヴァルテリーナという品種の葡萄もある。



 <ブドウ畑と教会>

 もちろんティラーノは、ベルニーナ急行の発着駅で、ベルニーナ山塊やサンモリッツに繋がったから、今は観光の町。ただベルニーナ急行への乗り換えという短期の滞在客が多くて、駅の周り以外は観光客は見えない。僕のような4泊もする客は珍しいようだ。今は、駅のある川の北側が町の経済的な中心でもある。ミラノからの列車、サンモリッツからのベルニーナ線が着くからだ。



 <アッダ川>

 町は、アッダ川で南北に分断されている。僕のホテルは、Hotel Centrale。つまりセントラルホテル。実はアッダ川の南のほうが古くからの町で、昔の町=チェントロ・ストリコは川の南側に残っている。町の中心の大きな教会、サン・マルティーノ教会は宿のすぐそばにある。朝、夕、鐘楼からの鐘が鳴る。教会は、イタリアでは町の中心という意味合いがある。駅から10分は歩くが、それが幸いしたと思っている。観光客の町ではなく、土地の人ばかりの町に入りこんだ感じがしたからだ。



 <サン・マルティーノ教会>

 今回の3週間の北イタリアの滞在のうち、唯一、雨が降ったのが、このティラーノの午前中の半日。高い山に囲まれた、山ならではの変わりやすい天気のせいだ。半日、無駄にしたような気もしたが、しかし、ぼんやりと空を眺めて、早く天気にならないかなぁと願っている、ゆっくりした時間も捨てたものではない。

 午後には、雨が上がったから、町を歩いてみることにした。ホテルの女将さんに書いてもらった地図を頼りに、細い道、建物の中をトンネルで通り抜ける道、川沿いの道、車の通れない道、山の見える橋を渡り、広い公園の木陰で、たむろして穏やかな時間を過ごしている老人たちと時間を共有することが出来る。見上げると高い山が、高いカラマツの梢の上にそびえる。駅の周りには、観光客のざわめきが感じられるが、一本、道を渡れば、そこにはゆっくりとした時間が流れている。



 <魚屋>

 山の中の谷の町にも、魚屋があった。びっくりした。金曜日には肉を避けて、魚を食べる習慣が、今も残っているのだろう。大きなタコもガラスケースの中に見え、山の人も、海の魚を食べるんだと感心したりする。アッダ川に近くを歩いていると、面白いものを見つけた。それは、昔の洗濯場。手で洗濯ができるように、縁が広く斜めになった、水場があり、こんなところでおしゃべりしながら、女性たちがゴシゴシやっていた昔の姿が目に浮かぶ。



 <洗濯場>

 旧市街の中心の広場、ピアッツア・カヴールまで戻ってきたら、週末だけの市場、骨董市が開かれている。町の人たちが懐かしそうに眺め、品定めをして値段交渉をしていた。なんだか、デジャヴの世界を見たような気分。



 <骨董市>

 ホテルには、フェラーリの客が来ていた。しかし、ホテルの駐車場には、フェラーリの幅広の車体は入れない。女将は残念そうに、フェラーリを見送っていた。僕には一生、触ることだってできないフェラーリの写真を撮らせてもらって、ホテルに帰ってきた。



 <フェラーリと僕>

 ホテルのレセプションにいた若い女の人と話していたら、ホテルは、3年前まで、彼女のおばあちゃんの持ち物の薬局だったとのこと。今の女将が買い取って、完全に自分の好みでデザインし、リノベートしたものだと説明してくれた。どおりで、窓を開けたら部屋のエアコンが自動的に止まったり、部屋の天井の明り取りをリモコン操作で開閉できたり、部屋のグラスが美しいオーヴァルの形をしていたのだと納得。若い女の子は、おばあちゃんのやっていた薬局だったけれど、ホテルとしてリノベートされて客もつき、今は従業員として満足して働いていると、明るく話してくれた。それがホテルの歴史だった。



 <明日天気になーれ>

 ティラーノの町は、心が落ち着くいい町だし、いいホテルだったと思っている。せかせかしないで、ゆっくりと過ごしてみてはどうだろう。

今回の旅のヴィノ

2016-09-25 | 2016 イタリア

 おそらく最後のイタリア行きだと思って、ワインのデータといくつかの写真を撮ってきた。

 まとめてみると、ざっと15品種の赤を飲んでいた。白は、ホテルに冷蔵庫があったとしても、フルボトルは入らないから基本的には「部屋飲み」はしなかった。白は、昼間のランチの時に、グラスか、カラッファ(ピッチャー)で飲んでいただけだ。しかもいつも、フリウリのピノ・グリッジョ。店でハウスワインの白を頼むと、驚くことに、ほとんどがピノ・グリッジョだった。まあ、大好きな白だから、問題はなかった。

 赤では、21日間で22本を購入していた。やはり、一日一本、消費していたことになる。それに、昼間のグラスワインは入っていないから、実際の量は、それを超えている。これは、ドクターには内緒。一応、心臓君のためには禁酒と言われているからだ。後付けでいえば、今回、発作は起きなかった。3,000mでの酸欠の心臓君の苦しさを除けば。

 いろいろなワインを試して飲んでいても、いつのまにか、もちろん僕の好みで、数品種に収斂してきたのが分った。試してみて、これはという新発見は難しいということかもしれない。

 例えば、知らなかった品種をあげてみると、ガルダ湖のあたりでしか栽培されていないTeroldegoや、ヴェネトのGinestre、最も口に合わなかったのは、ティラーノで買ったヴァルテリーナ産のValtelinaなどがあげられる。イタリアの北部の地方に限っての話だが、皆に知れわたっている品種に、選択肢が狭まってくるのが分った。



 <初めてのワイン>



 <ネッビオーロ ドルチェット>



 <ピノ・ノワール>

 僕はもともと、南イタリアの甘さの強いワインは嫌いだから、選択の対象にもしなかった。南イタリア人には、よく馬鹿にされているのだが…。

 結果として、ピエモンテ、ロンバルディア、ヴェネト、トスカーナ、アブルッツオあたりまでを飲んでいることになる。

 よく飲んだワインをあげてみると、こんな風になった。

・モンテプルチャーノ  5本
・バルベーラ       4本
・ヴァルポリッチェッラ  4本
・モンタルチーノ     2本
・カヴェルネ        2本

 他には、僕の大好きなランブルースコ・セッコ(セッコ以外はダメ)、ピノ・ネーロ、バルドリーノ、ドルチェット、ネッビオーロなどを飲んだと記録がある。

 これを時系列的に見ていくと、最初は、いろいろな冒険をしているのだが、いつの間にか、手が伸びる品種が絞られてきていた。

 僕がミラノでワインを買うというと、日本円で800円から1,800円近辺のものだが、十分においしい。500円以下は、トライしてみたが、やめておく方がよさそうだ。

 リストではモンテプルチャーノと書いているが、アブルッツオ産のものがトスカーナ産に比べて格段に安い。しかし、モンテプルチャーノの味はしっかり残っている。コストパフォーマンスから言えば、いいワインといえる。モンテプルチャーノ特有のブーケが、僕の好みとは言えないようだ。なんだか、すり寄ってくるような感じがするのだ。



<モンテプルチャーノ バルベーラ>

 ピエモンテでは、バローロやバルバレスコは外せないのだが、僕には重くて耐えられない。すると、バルベーラということになる。アスティのバルベーラはよく飲んだ。これは好きなヴィノと言っていいだろう。決して、裏切りはしない。



 <モンタルチーノ ヴァルポリチェッラ>

 しっかりと、しかし、媚びないところがモンタルチーノの特性か。でも、値段は高い。トスカーナのほかのワイン、つまりキャンティ、モンテプルチャーノと比べると、断然モンタルチーノが好みだ。これは僕の好きなヴィノの、トップかもしれない。

 

 <モンタルチーノ バルベーラ>
 
 今までの印象を覆したのは、ヴァルポリッチェッラだ。これはブドウの種類ではなく、とれる産地の区分けだが、ちゃんとしたボディもあって何でも合う。好みのワインの一つになった。これからは、日本でも試してみようと思う。



<ヴァルポリチェッラ カヴェルネ>

 カヴェルネソーヴィニオンは、イタリアのブドウではないが、やはり安心できる。日本でも、もっぱら、チリ産やオーストラリア産のカヴェルネソーヴィニオンを飲んでいる。イタリアのカヴェルネもいいものだった。



<ランブルースコ・セッコ>

 一番、うれしかったことは、僕が45年前、ミラノに赴任した時に通っていたトラットリアで、「おいしいよ」と教えてもらった、エミリア・ロマーニャのランブルースコ・セッコに出会ったことだ。ランブルースコは、少し甘めの発泡性のワインと定義されているが、どっこい、セッコはすばらしいと確信している。生ハムとの相性は抜群。日本では、なかなか、セッコは見つからない。飲めば、定説の間違いを確認できるだろう。

 ワインは、幸せな旅の一つの要素だ。今回の旅を幸せなものにしてくれた、名脇役たちだと言えるだろう。

ベルニーナ・エクスプレスとマウンテンバイク

2016-09-11 | 2016 イタリア





 <ベルニーナ・エクスプレス>

 車では何度も越したことがあるベルニーナ峠。今度初めて、イタリアのティラーノから、レーシック鉄道、ベルニーナ線でサンモリッツ往復と、デヴォレッツア往復をやって楽しい風景を見たから、写真主体だが、それを書いておきたいと思う。車の運転ということから解き放されて、周りを見る楽しさに満ちた旅、これが列車の旅、無責任な旅の醍醐味かもしれない。



 <ベルニーナ線の標高差>

 ベルニーナ鉄道の最高点は、オスピッチオ・ベルニーナ駅の海抜2,253mだ。この両端に、宿をとったイタリアのティラーノの町、429mと、スイスのサンモリッツの町1,775mがある。その間を2時間半で、ゆっくりと列車は走る。その間、カメラをもって、目を見張りながら豊かな時間を過ごすことが出来た。

 当初の目的は前回書いた通り、ロープウエーで登るサンモリッツのピッツネール、3,056mと、デイアヴォレッツア、2,953mからの眺めだった。今回は、そこへの行程の風景を書いておきたい。一言で言うと、すばらしい自然だった。



 <ティラーノ発の電車>

 ティラーノ市内は路面電車だ。そして、すぐスイスとの国境を過ぎる。そこから、ベルニーナ・エクスプレスは、アルピ・グリュム2,091mまで一気に1、660mほどを登りつめる。約1時間15分の旅だ。あっという間だ。この間、美しいポスキアーボ谷のいろいろな姿がよぎる。



 <ブルージオのループ橋:Bernina Express HPより借用>

 最も知られているのは 、ブルージオの石造りのループ橋だろう。360度回転しながら、高度を稼いで行く。残念ながら、窓は開けられないから、ガラス窓越しにシャッターを切る。イタリアの列車の残念な特徴の一つだが、窓の清掃が十分ではないから、ガラス越しにはいい写真は撮れない。絵の片隅に汚れが暗く影を落とす。



 <ループ橋を走る>




 <森林限界>

 ポスキアーボ、1、014mから、急峻な登りだ。カヴァリアなんてかわいい駅をすぎて、電車はどんどん上っていく。ここで森林限界を超えて樹木がなくなり、眺望が開けてくる。見逃すまいとカメラと肉眼で、周りをきょろきょろ。僕だけではなくて、乗っている人たちがみんな、騒いでいる。

 印象的な風景は突然現れた。ベルニーナ山塊の氷河が解けたと思われる滝が、氷河が削ったと思われるカール状の谷の奥に見える。何段にも連なって、滝がかかっている。とめどなく氷河は溶けているわけだ。美しいけれど、そこには地球の涙が流れていたのかもしれない。しぶきが激しい。



 <氷河が解けて落ちる滝>



 <氷河の溶け落ちる水量>

 登り切ると、高原台地の最初の駅、アルピ・グリュン、2,019mに着く。そこから、この線の最高地点、オスピッチオ・ベルニーナ2,253mに着くと、そこが分水嶺。両端を堰き止めてできたラーゴ・ビアンコ(白い湖)を眺めながら、7月の高原の光と草をはむ牛の群れを見る。ディアヴォレッツア駅を過ぎると、高原台地ともお別れ。まもなく、特には見るものもなく、スイス・エンガディンの谷筋に降りていく。


 もう一つ、僕には発見があった。それは、アルプスでのダウンヒル・マウンテン・バイキング。こんなに、流行っているとは知らなかった。



 <コルヴィリアで降りるバイクたち>

 最初の目撃したのは、サンモリッツからコルヴィリアに登るケーブルカーに何台もバイクが乗り込んできた時だ。さらには、コルヴィリアからピッツネールに登るロープウエーにお父さんと若い娘さんが、バイクを持ち込んできた時だった。えっ、3,000mからバイクでダウンヒルをやるのかと訝って眺めていた。彼女のバイクは、どう見ても新品に近い。そんな初心者を3,000mまで連れていくのかと心配して聞いていたが、ドイツ語なので分からなかった。



 <ピッツネールの裏側へのスキートレイル>

 ピッツネールの頂上から降りるには、夏スキーでも使っていた裏への斜面を降りることだが、それも大変だと思っていた。後で調べてみたら、トレイルはコルヴィリアから始まっていたので、おそらく一度ピッツネールに登って、雄大な風景を娘さんに見せておきたかったのかもしれない。キャビンでコルヴィリアまで降りて、そこからサンモリッツまでのダウンヒルをやったのかもしれない。コルヴィリアも、2,500mはあるから、サンモリッツまでの標高差750mくらいのダウンヒル、スリルに満ちているだろうと思ったが、僕は見届けてはいない。



 <サンモリッツを見下ろす、バイク・トレイル:サンモリッツ観光協会より借用>

 帰りのベルニーナ・エクスプレスのポスキアーボ駅には、ダウンヒルを終え、疲れた連中がプラットフォームで休んでいた。彼らもアルプ・グリュムぐらいから、1,000mの標高差をバイクで降りてきたのだろう。よく見ると、バイクは特製だった。後ろの車輪のダンパーはもちろん、前輪のフレームにも、ショックを受け止めるダンパーがついていた。前輪のタイヤは、太くて、滑り止めのゴツゴツしたものがついていた。もちろん、ディスクブレーキ。頭にヘルメット、脛、肘のプロテクターをつけて、完全装備だった。こうしてグループで、夏を楽しんでいるのだ。若かったら、やってみたいなあと思わせる光景だった。



 <ポスキアーボ駅のバイクたち>



 <くたびれたぜとライダーたち>

 余分なことだが、もしこの鉄道を利用されることがあるとすれば、写真を撮るには、無蓋車がお薦めだ。何しろ、閉まった汚い窓がない。ただ太陽とは直接向き合う必要がある。



 <無蓋車、暑そう>

 さらに余分なことだが、このベルニーナ鉄道と箱根登山鉄道が協賛関係にあるということで、ティラーノやアルピ・グリュムに箱根登山鉄道から寄贈された日本語の看板がある。電車のスケールといい、取り巻く風景、環境といい、まったく違う感じがして、ちょっと馴染まないなと思ったのだが…。



 <日本語のティラーノ駅看板>



 <アルピ・グリュムの駅看板>

ヨーロッパ・アルプス、消えゆく氷河と酸欠

2016-08-28 | 2016 イタリア



<アレッチ氷河:1979/1991/2002の比較  by Zuecho CC.3.0 Unorted>

 最後のイタリア行きとなるだろう旅の目的に、ヨーロッパ・アルプスを見ておきたいということがあった。できれば、ドロミティを車で走ってみたかった.のだ。ヴェネチア、コルティーナ・ダンペッツォから西へ、マルモラーダ、そこからオルティゼイ、そしてサンモリッツへと考えていた。距離、500㎞、時間、7時間半。このコースは何度か走っていて懐かしいが、歳のことを考えると、ドロミティの曲がりくねった細い道に車を走らせるのは、ちょっとリスクだと考え電車で予定を立ててみた。

 スイスといえば、本当は、グリンデルバルト、アイガー、ユンクフラウ、ラウテンブルンネンのあるベルナーオーバーランドに行きたいが、ちょっと遠い。そこで、エンガディンのサンモリッツで妥協した。

 ミラノから車では2時間半ほどのところを、電車でサンモリッツまでいくと、乗り換えが多くて4時間半はかかると分った。しかも、特急はない。そこで考えたのが、スイスとの国境の町、ティラノを拠点とする案だ。有名なベルニーナ鉄道が、サンモリッツとの間の高原を2時間半でゆっくり走っている。僕は、車では何度もベルニーナ峠を走っているが、電車で行くのは初体験。楽ちんだろうと思ったのだ。

 白状すれば、ホテルの値段がサンモリッツとティラノでは、4星クラスで倍、半分の違いがある。ティラノなら、ミラノからトレノルド鉄道(ロンバルディア地方をカバーするトレニタリア)の鈍行で2時間半。コモ湖を見ながらの旅もいいだろうと、ティラノに4泊と決めた。



 <コモ湖:ベラージオ>

 サンモリッツを選んだのは、イタリア駐在時代にミラノから一般道を4時間ほど車を転がして、僕は何度も行ったことがあったからだ。いつだったか、友達が日本からスキー靴を背負って会議でパリにやって来て、ミラノに寄って、僕にサンモリッツに連れて行けと半強制的に迫られたことがある。そのとき登ったのがサンモリッツの最高地点、ピッツ・ナイア(3,056m)だった。今回も、そこにも登ってみたかった。あの時はスキーで6時間もかけて、サンモリッツに帰ってきた懐かしい思い出の場所だ。

 また、氷河が恐ろしいスピードで溶けている現状が見られるという、ベルニーナ・アルプスの山々も見てみたかった。歩いて山登りができる体ではないから、ロープウェーのキャビンでディアヴォレッツア(2、953m)に登って、ピッツ・ベルニーナ(4,047m)を眺めてみたかったのだ。

 ひとつ、気がかりな事があった。それは僕の心臓。肥大型心筋症で心房細動の持病。4回のオペの結果か、最近は安定してきて、発作が起きて電気ショックを受けに病院に救急搬送ということは起きなくなっているが、心配。医者に相談したら、酸素ボンベをもって登れ、マツキヨに500円くらいで売っているという。しかし、飛行機のセキュリティ・チェックで撥ねられそう。だったら、あまり歩くな、深呼吸をしろと、医者は忠告してくれた。

 3,000mのピッツ・ナイア頂上駅に着いたら、たちまち心臓がバクバクし出した。指先が冷たく、高山病の症状が出た。まずいぞと自重。昔はこの時期も、夏スキーができたのに、今は山頂まで雪がない。地球温暖化は、夏スキーをダメにしていた。ピッツ・ナイアのカフェからベルニーナ・アルプス群を眺めて、ほうほうの体で、サンモリッツまで逃げ帰った。



 <ピッツ・ナイアから見たベルリーナの山々>

 次の日、もう一つの目的地、ディアボレッツアへ。イタリア語で、「悪魔のような」という名前の駅でベルニーナ鉄道を降りて、100人も乗れるキャビンで2,953mまで10分足らずで直登。キャビンの麓の駅で、もう僕の心臓はバクバクし始めた。胸が苦しく、脈拍が早くなる。気分が悪い。しかし、ここまで来たのだからと、ゆっくり、ゆっくりと頑張る。




 <デイアボレッザからの眺め:右から2番目がベルニーナ by JoJo CC.3.0>

 ロープウェーの終点から見ると、目の前に、ベルニーナ・アルプスの主峰、ピッツ・ ベルニーナがそびえている。この山のモルテッラ氷河が一番速いスピードで消滅しているという。1920年から記録では、年に20mの氷河の後退が観測されている。早晩、アルプスから氷河が消えるという科学者の話は、現実に目の前で起きていた。氷河の水が枯れると、下流はどうなるのだろうかと、恐ろしくもなる。



 <氷河の成れの果て>

 かえり、氷河のなれの果ての氷河湖が、キャビンの足元に散らばって見えた。テントをかぶせて、溶けるスピードを遅くしようという涙ぐましい努力も見えたが、早晩、勝負はつくだろう。その時、地球はどうなるか、誰も知らない。



P.S. クレジット情報
① <アレッチ氷河>は、Zuechoさんの写真をお借りしました
ライセンスは Creative Commons 3.0 unported
② <デイアボレッザからの眺め>は、 JoJoさんの写真のお借りしました
ライセンスは、 Creative Commons 3.0 

44年来の友人との再会@ミラノ

2016-08-14 | 2016 イタリア


 今度のミラノは、僕のカスケットリスト(棺桶リスト:くたばるまでに会っておきたい人のリスト)で、一番優先度が高い項目に、○(達成印)をつけるためだった。



 <カスケットリストの一部>

 それは、44年前に知り合って以来、付き合ってきたエミリオに会うことだった。最初の出会いは1971年、IBMミラノの製品開発拠点で、僕の二度目のイタリア駐在の時だった。その頃、彼は40歳代半ばで、30過ぎたばかりの僕より兄貴だった。前の駐在業務の残務整理のような目的で、6月から4か月の滞在だった。期間が短く、単身赴任だったので、彼とは仕事の上のみならず、個人的な生活でもつきあいができた。それには、彼の兄貴分としての好意があったからだ。

 イタリアでは、敬称をつけて呼ぶことが公的な会話では必要。彼は、その頃としてはまだ珍しく大学を卒業していて、技術者としてIBMで働いていた。だから、ドットーレ(博士)Sと呼ばれていた。人にやさしい、指導的な立場の役職、おそらく副部長クラスの人だったと思う。

 ミラノの彼のマンション(イタリアではアパルタメントと呼ぶ)によばれたのが始まりだった。

 7階建てのマンションの最上階に彼の自宅があった。驚いた。5LDKほどのマンションの居間に、暖炉があったのだ。暖炉は飾りではなく、冬は暖房のために燃やすという。もちろん熱に考慮して、外壁の角に取り付けられ、煙突も出ていた。その頃、日本の団地の部屋には、暖炉なんてものは見たことがなかった。生活の質の差を感じた。子供は長男のフルビオ君が一人で、3人の暮らしだった。



 <ドロミティ・ディ・ブレンタ>

 何度かミラノのマンションにもお邪魔したが、忘れられないのは、彼のドロミティ・ブレンタの別荘だ。ドロミティ・ブレンタとは、マルモラーダ山を核とする、よく知られているドロミティ山塊とは離れて、アディジェ川の西側にある山塊で、同じくドロマイトで出来ている山々。7月初めから、子供と奥さんは避暑のためにミラノを離れ、マドンナ・ディ・カンピリオ村の別荘で過ごしていた。エミリオは仕事があるから、そんな長い休暇はとれず、週末になるとアルファロメオ・ジュリアを3時間近く走らせて、家族のもとに帰っていた。その頃は、まだブレシアからの高速はなかったから、ガルダ湖の東側を登って、300㎞近い距離を走っていたわけだ。

 夏をミラノで一人、過ごしている僕を見て、別荘に来ないかと誘ってくれた。3回ほど、マドンナ・ディ・カンピリオまで、彼と一緒の週末ドライブになった。1500mの高原の斜面に、彼のログハウスがあった。庭は広く、僕にはあこがれの大きなハンモックが白樺の木にスイングしていた。フルビオを寝かしつけると、エミリオは奥様、エミリアと僕と一緒に夜の村の散歩に出た。8月とはいえ、高原の空気は冷え込んでいた。高い山の連なりの上空には、星たちが燦然ときらめいていた。

 日本で言ってみれば、東京にマンションを持って、そして軽井沢に別荘を持つなんて、一般的なサラリーマンができる生活ではない。羨ましかった。その頃僕は、横浜の皆の憧れる公団住宅に“誇らしく”住んでいたのだから、ギャップは大きかった。質がちがった。

 その後、彼は1982に来日して、藤沢のIBMのサイトに一週間弱やってきた。本当だったら、家に呼ぶのがイタリアの常識だが、それができるほど我が家は広くもない。仕方なく、外で食事に誘った。その時、馬刺しを食べさせて、後で彼に怒られたことがある。その後も、1987のブラッセル出張の折、理由をつけてミラノのサイトを訪れ、彼に会った記憶もある。

 クリスマスカードの交換が続いたが、1996年と2002年に、僕がイタリアに、それぞれ3週間くらい滞在したとき、F1で知られるモンツアの自宅に招かれて、エミリアとも会って昔話をした。

 2012年にイタリアへ行ったが、スケジュールが合わずエミリオには会えなかった。僕も心臓君に問題があり、彼の愛妻のエミリアには筋無力症が発症し、先が不透明。やっと今年(2016年)、最後の再会にこぎつけたわけだ。85歳になったエミリオは、いつものように紳士。ピンクの夏姿の奥様の尻に敷かれながら、ニコニコと、いいご夫婦を楽しんでいた。エミリアが見せてくれた写真には、8人の孫に囲まれた二人の姿があった。その中には、あのフルビオの子供も写っていた。イタリア人の心の中心には、常に家族があると感じているから、彼らが嬉しそうに、家族の写真を見せてくれるのを羨ましく思う。



 <二人のEと僕>

 話し合始めると、あっという間に、会わなかった14年の空白がすっ飛び、昨日の延長で今日、話しているような感じになった。これは、本当の友達の特権だろう。

 EXPO2015の都市づくりの一環として設計された、美しい「縦の森」を見たいと言ったら、エミリオが車でそこまで連れて行ってくれた。車はアウディのA6。昔はアルファ・ジュリエッタじゃなかったかと聞いたら、あれから、いろいろ車を替えて、BMWなどにも乗ったと言っていた。内装も、アウディA6はすばらしい車だった。



 <縦の森>

 灼熱のミラノを、ホテルまでA6で送ってくれた。車を降りて、二人と頬を寄せてハグし、両手で握手した。今度は「上」で会おうと声をかけた。三人に笑みが生まれた。アウディが角を曲がってコルソ・ブエノス・アイレスに消えるのを、僕はホテルの前で見送った。今生の別れだろうと、三人ともわかっていた。