M.シュナウザー・チェルト君のパパ、「てつんどの独り言」 

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自由が丘から多摩川へ

2016-03-27 | エッセイ

 先日、久しぶりに自由が丘に行ってきた。ここは僕が大学の頃から住んでいて、東京で就職し、さらに、会社が藤沢に移っても、ここから通っていた懐かしいところだ。結婚式の日の僕の髪を整えてもらった理髪店は、今でも同じところで営業している。いとこも住んでいるし、懐かしいから、折にふれ自由が丘を訪れる。



<自由が丘>

 今回は、ちょっと暗い話だ。

 古い友人を訪ねてみようと考えた。彼女とは、この4年ほど連絡が取れない。メールに対しても、応答がない。電話は「この電話は現在使われておりません」という言葉が響く。メールは、リジェクトされて戻っていないからメールアドレスは生きているかもしれない。

 彼女は高校の時の後輩。以来、50年ほどの付き合いがある。この長い時間の間に、何度か、音信不通になった人だ。ふっと消えて行方不明になるのだ。3回ほど消えたことを覚えている。

 消えていた間にシングルマザーになり、自分で会社を経営していた。会社のオフイスは、自由が丘から目黒線で一つ目の緑が丘だった。

 彼女が田園調布のアパートにいた頃、僕は一人娘のチビだったA子と遊んだり、その子の医者通いを手伝ったりしていた。その子は、ファミレスに行ったことがないというので、「親子3人」みたいな感じで、環八のジョナサンに行ったこともある。



 <緑が丘>

 ある日、箱崎のオフイスの電話が鳴った。彼女からだった。経営が苦しいから、つなぎのために、金を少しでいいから貸してほしいと言う。金を貸すと友達を失くすからと、僕は断った。しかし、少しでも…と粘られた。仕方ないと、少し貸した。直後に、また彼女は姿を消した。勿論、この金銭貸借契約は、とっくに時効だ。

 次に見つけたのはグーグルでの検索。あやしげな高齢者支援のコンサルタントと称していた。その後、体調をくずしたとか、A子がメールしてきたのを最後に、また連絡が取れなくなった。

 先日、近間の買い物でしか使っていない車に鞭を入れるため、第三京浜を走って緑ヶ丘まで行ってみた。元の店にはシャッターが下りていた。またしても、僕の目の前から消えてしまった。

 お互いに70過ぎたのだから、何があっても不思議はない。高校卒業の時、生まれて初めてキスした彼女のことは、やはり知っておきたい。帰りに、うろ覚えの田園調布のアパートを探してみたが、そこには、新しい戸建が軒を連ねて並んでいた。



 <兵隊屋>

 田園調布まで来たのだからと、昔からの蕎麦屋、兵隊屋に寄って鴨せいろを食べた。池の鯉も健在だった。ついでに、何十年も足を運んだことのない、多摩川台公園に車を進め、多摩川を見下ろしてみた。

 東横線の鉄橋には、見なれない色の電車が走っていた。あとで調べてみたら、相互乗り入れで、みなとみらい線の元町・中華街まで線路がつながったので、東武東上線、西武池袋線、都営地下鉄、東京メトロなどが、東横線と同じ線路の上を走っていた。



 <東横線の鉄橋>

 多摩川の河岸段丘の公園からは、遠くに富士山が見えた。



 <富士>

 彼女とは、もう会えないかもしれない。

 仕方がないさと、第三京浜を飛ばして横浜に帰ってきた。

あれから5年

2016-03-11 | エッセイ




 <多賀城の津波:買主さんの街>


 2011年3月11日午前10時、僕はマンションの登記証書と鍵を買主さんに引き渡すため、不動産屋の仙台のオフイスにいた。司法書士さんの立会いの下で、書類を渡し、何枚もの紙にハンコを押し、何枚もの領収書にハンコを押し、何枚もの書類を受け取った。



 <引き渡し確認証>

 みんなで買主さんの取引銀行に行き、買主さんの指示で約束の金額を僕の口座に振り込まれた。それをその場で確認し、マンションの鍵と権利書をそこで引き渡した。皆と別れて、僕の取引銀行の仙台支店まで行って入金を確かめた。これで、引き渡しは完了した。

 前日の3月10日は、仙台のビジネスホテルに前泊していた。仙台を訪れるもう一つ目的があった。翌日、取引が終わったらガンで虹の橋の向こうに行ったM.シュナウザーのチェルトの墓参りという予定だった。

 予定より早く11日の11時ごろ、取引が終わって外に出たら小雪が舞ってきた。中途半端な時間だなと思いながら、雪に背を押され、僕は仙台駅の方に歩き出した。葛岡墓苑は雪だろうし、チェルトの墓参りはこの次にして早く帰ろうかと調べてみた。元は14:26の「はやて」の予定だった。すると、12:26の「はやて」に空きがあった。今日は早く帰ろうと、新幹線に乗った。

 大震災の時刻、14:46には、僕は横浜から京急線に乗ったばかりだった。戸部駅を過ぎてすぐ、大きな揺れが電車にも伝わった。急ブレーキ。見ると、線路際の木造二階建ての家が、ガタンガタンと大きく揺れていた。線路より高いところにあるその家は、線路に落ちてくるのではないかと、車両には悲鳴が上がった。その後、線路を歩いて、戸部駅まで戻り、地上に降りてほっとした。

 横浜駅の中央通路は、人で埋まっていた。みんな、ダンボールを手に入れて、タイルの上に座り込んでいた。その後、岡野中学の避難所で一晩を過ごし、金沢の自宅マンションに着いたのは、翌日の朝だった。

 2、3日して、電話が復旧したので、仙台のマンションの管理人さんに電話した。マンションは無事だった。マンションまで水道が来ていないけれど、それ以外は大丈夫と聞いて安心した。そして、買主さんに電話した。しかし、彼には津波の被害が襲っていた。仙台市の隣の多賀城市で、自宅が流されていた。ご家族は無事だった。幸い、マンションは無事だったので、避難所が出来たと聞いた。よかった。お互いによかったと電話でうなずいた。

 一度、仙台をと思いつつも、心臓君の問題もあり、延び延びになっていた。その間、仙台の友人に連絡して様子を聞いてみたが人的被害のある人はなかった。よかった。

 思いがかなって、仙台を訪れることが出来たのは、昨年(2015年)の10月だった。5年ぶりにバラを一本持って、M.シュナウザーのチェルト君の墓参りがやっと出来た。その足で、マンションにより、買主の奥様にお見舞いを申し上げた。避難場所としてマンションがあったので助かったと聞いて、やっとほっとした。ガーデンデッキに出してもらい懐かしい5年ぶりの仙台を写真に撮った。



 <デッキからの仙台>

 東日本大震災のその後を見ておこうと、日帰りで、最大の被災者を出した石巻を訪れた。4年半の間に、少しは落ち着いた感じではあるようだけれど、心配な姿をたくさん見た。それは、盛り土。

 6メートルもの盛り土(かさ上げ)が行われている。しかし、土地の人の話を聞くと、とてもあんな盛り土の上には住めないと、思っているようだ。盛り土というのは、人口基盤でも作ってやっているのかと思っていたが、とんでもない。たんに何処からか土、それも砂交じりの土を持ってきて、積み上げただけにすぎない。石巻市民病院があった平地の盛り土では、雨で土が流れて、小さなグランドキャニオンが出来ていた。雨で崩れていくのだ。こんなところで、誰が安心して家を建てられるか。



 <日和山遠望>

 国は、大土木会社に膨大な金を払いながら、住民は住めないと思っている土地(?)を作り続けている。ブルドーザーがその上を走って、土地を固めているようだが、単なる盛り土にすぎない。なんだか悲しい姿だ。石巻で、一番賑やかだった町、人口が多かった日和山のふもとに人が住み始めるのは、何時のことだろうか。

 仙台でイタリア語・ボランティア活動をやっていて、親しくなった宮城教育大学の市瀬先生に連絡を取ってみた。毎年交換留学生を受け入れていたイタリア・ペルージア国際大学の学生は、その後、途絶えているとか。理由は、イタリアの大学が、福島第一原発事故の放射能汚染を心配して、学生を送るのをやめているからだと聞いた。日本だと「風評被害」ということになるのだろうが、外国では、福島第一の事故は終わってはいない。やはり、子供たちを送ることはイタリアの親たちにはできないというわけだ。残念なことだ。

 確かに、津波は物理的には一過性のものだが、福島第一原発の事故は、今後、何十年も続く果てしない災害だ。メルトダウンした原発そのものの廃炉の問題もあるが、他に広く問題なのは、除染の残土の処理、汚染した村や町での町の再興や、増え続ける汚染水の処理だろう。メディアや国は、もう騒いでいないが、本当はこれからだ。気の遠くなるような時間なのだ。

 石巻の津波の痕で、一番心に残ったのは、津波の作った水たまりでテディベアらしいぬいぐるみが、持ち主に発見されることもなく、汚れたままで浮かんでいた風景だ。持ち主はどうしたのだろう。



 <テディベア>

 横浜に住む僕が出来ることはないかと考えた末、実行していることがある。仙台に住んでいた時、お世話になっていた酒屋がネットで通販をやっていると知った。そこで、僕んちのワインは、仙台のその会社から買うことに決めて、この五年間、それを続けている。支払い額は、いろいろ合わせて月1万5千円くらいだけど、ほんの少しは役にたつだろうと思っている。

 でも、もう二度と仙台に行ことはないと思う。