M.シュナウザー・チェルト君のパパ、「てつんどの独り言」 

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二番目に古い友達と一番古い友達

2015-12-20 | エッセイ

 TNTについて書いておこうと思う。TNTといっても、あの爆薬の原料のトリニトロトルエンのことではない。古い友達、3人会の略称だ。Tは高○、Nは沼○、最後のTは僕の名字を取って、語呂がいいから使っている。



 <古い写真1957>

 3年ぶりに、一番古い友達(小学5年から:63年前)と、二番目に古い友達(高校1年から:58年前)の三人、つまりTNTの会合を持とうと、今年の5月から計画していたが、Tが現役バリバリのインテリア・デザイナーで、仕事で日本中を駆け回っている。だから、彼のスケジュールを確定するのが難しく、延び延びになったので、エイヤっと僕とNが決めた。Tには時間が出来たら、顔を見せてくれというスタンスでNと会った。



 <ハチ公>

 渋谷のハチ公で待ち合わせた。Nとは時間通り会えたが、20分ほどTを待ったが現れないので行きつけのドイツレストランに入った。Tには店の名前と、場所を知らせていたから、その気になったら来るだろうと…。



 <グリル>

 実はこの二人とは、かなりの偶然が働いて、音信不通から再会することになった。僕は高校を転校している。親父の都合だ。TとNとは、前の高校の2年1学期で別れた仲だった。それを、奇妙な偶然が僕たちを引き合わせてくれた。

 Tとは、僕が大学生のころ付き合っていたP子が絡んだ再会だった。その子とは結果的には別れたのだが、彼女は、僕のアルバイト先で広報を担当していたM美術大学を出たグラフィックデザイナーだった。

 その頃、日宣美(日本宣伝美術協会)が元気なころで、若いグラフィックデザイナーの登竜門だった。ここで大賞を取ると、就職は保障されていた。この奨励賞を取った横尾忠則は、グラフィックデザイナーとして、日本のグラフィックデザインの元祖だったと言ってもいいと思う。

 Tは千葉大生のころ、この日宣美で大賞を取って、デザイナーの若手のホープと見込まれて高島屋の宣伝部に入った。そして、それを僕に教えてくれたのがP子だった。彼女も、翌年、日宣美で大賞を取り有名になった。ある日、日宣美の画集を僕に見せてくれた。そこで、Tが日宣美の受賞者だと知った。僕は高島屋の宣伝部に電話して、Tの存在を確認した。そして、高島屋で7年ぶりに彼と会った。昔は、僕より背が高かったTだが、会ったときは僕の目線の下にいた。びっくりした。

 Nとの再会も、偶然に助けられたものだ。彼は、和歌山大学を卒業して、NECに入っていた。それを僕は知らなかった。偶然がぼくたちの再会を演出してくれた。僕は、I社のアプリケーション・システム開発担当をしていた。I社の製造部門のアプリケーション・システムのほとんどを手掛けるという幸運にめぐまれた。

 その頃、MRP(Material Resource Planning)とか、CIM(Computer Aided Manufactureing)
という言葉が流行り出したころで、単なる概念ではなく、システムを作って運用していたI社の実例は、その頃の生産技術研究学会のいいネタになっていた。上智大の荒木先生、早稲田の中根先生などに誘われて、僕も何度か講演会に呼び出されていた。



 <シンポジューム>

 そして1991年に、上智の荒木先生によばれて「戦略的CIM構築シンポジューム」で講演することになった。Nは、僕にとっては競合関係のNECでロジスティック関連の営業技師長をやっていた。そして、彼が偶然見た、シンポジュームのポスターに、ユニークな僕の名前を講演者として見つけて、「こいつ知っている」と連絡してきてくれた。僕の名前は、どうも、日本に一人しかいないようだ。ポスターが、そして僕の名前のユニークさが鍵となって、再会が実現したのだ。

 この前は、横浜のイタリアンレストランだったから、今回はTが現れやすいようにと、彼の会社の近くの渋谷に計画した。しかし、Tは現れないので、Nと二人で食事を始めた。彼は、何でも…と僕にメニュー選びを任せてくれたから、このグリルには10回以上来ている「僕のおすすめ」を注文した。この店の売りは、ドイツのハンブルグで始まったドイツ風のハンブルグステーキだけど、そんなもの子供の食べるものだと考えていたので、メインは、いつものようにアイスバインを選んだ。そして、前菜は、ニシンの酢漬け、サラダは、詰め物がされているホールトマトにした。これがこの店での定番の注文だ。



 <アイスバイン>

 話は、再会のいきさつから、彼の接待費で高級なエスカイヤークラブで再会を祝したこと、Tのこと、そして岡山の高校の様子、かれの実家のことなど話は次々と飛んで、楽しい時間がすっ飛んで行く。僕の方は、カスケットリスト(棺桶リスト)を作って、くたばる前に会いたい人に会ったり、行ってみたい場所に旅したりと、たわいのない話で時が過ぎる。

 Tは結局、現れなかった。70歳過ぎてもまだ、バリバリの現役のインテリア・デザイナーをやっているから、時間が取れないのだろう。仕方ないと、河岸を変えた。近くのホテルで高いコーヒーを飲みながら、静かに話すことが出来た。野郎のことだから、政治の話だとか、今はじめている趣味の話だとか、話は尽きない。

 今度はやはり3人で会おうと、帰宅ラッシュが始まる前の渋谷で、握手をしてNと別れた。本当に「今度」があるかどうかは、神様次第だ。

 次の日に、Tから、「突然の出張で…」とメールが来た。まあ、仕方がないか。でも今度があってもいいでしょう、神様!




<ハチ公の写真は、flicrからWally Gobetzさんの“Hachiko”をお借りしました>
クリエイティブ・コモンズ・ライセンスこの 作品 は クリエイティブ・コモンズ 表示 - 非営利 - 改変禁止 2.1 日本 ライセンスの下に提供されています。

築地から銀座へ

2015-12-02 | エッセイ

 久しぶりに先輩と銀座で会うことになって、その前に築地場外を歩いてみた。築地には、もう何十年も来ていない。最後は、会社の築地サイトのあった勝鬨橋のすぐそばのビルに一か月くらい詰めていた時だ。

 会社のカフェテリアは本当に餌(えさ)を食うといった感じで、楽しくない。結果として、大体、昼飯は築地のすし屋だった。今はビルになって無くなったようだが、晴海通りを築地四丁目のほうに歩いていくと、左側にも小さな寿司屋が並んでいた。

 昼休みだから、並んでなんかいられない。時間がないのだ。そこで、秘書さんの出番。食いに行く人たちのすしの注文を取って、電話で注文してもらう。開店時間にぴったり行けば、2貫ずつ乗った小皿が準備されていて、名前を言って出してもらって、食べてすぐ出てくる。こんな方法で、うまいにぎりを短時間で食べることが出来た。感謝。

 そんな思い出を持って場外を冷やかしてみる。平日の昼間なのに、人でいっぱい。細い通りには人があふれている。最近は「築地」が有名になりすぎて、外国人が観光目的で、築地に現れるようだ。結果として、小さな通りにも、人があふれている。はたして、本当の買い物客はどれだけいるかはわからない。観光で、「来たよ」と証拠写真を撮って帰るだけなのかもしれない。



<築地場外>

 外国人の中でも中国人は、子音の連続のきつい発音と声量で、圧倒的な存在だ。これが本当の喧噪の世界となる。そんな路地をちょっと注意してみると、ポカッとあいた空間に小さな墓地が門の奥に潜んでいた。入ってみると、もう寺自体は無いようだ。墓だけが昔のごとく残されている。外の喧騒と、無言のコントラスト。写真を撮らせてもらって、出て来た。 



<築地の中の墓地>

 約束の、銀座の4丁目に戻ると、先輩は約束の時間の15分も前なのに、ライオン像のところで僕を待ってくださった。もうせん、約束した時は、銀座三越のライオンの前と約束したはずなのに、前日に確認の電話をしたら、6丁目のライオンビヤホールで会うのだと思っていたようで、あわや行き違いになるところだった。今回は前日、4丁目のブロンズのライオン像の前と確認の電話をしてあった。僕が横断歩道を渡って三越につくまえに、手を挙げていらした。

 サッポロのライオンは古くて、81周年記念とある。戦前から同じ場所で、同じ建物で営業している、古い、古いビヤホールだ。ドイツのビヤホールを摸して、うるさいほどの音楽がかかっている。僕は、ビールは「とりあえず」ではなくて、本当はワインか、サワーの方がいいのだが、先輩がビヤホールだからビールだろうという言葉に従って、生の小ジョッキをもらう。



<ライオン>

 僕の好みで注文してと言われ、好物のサワークラウト、ニシンの酢漬け、ソーセージ、枝豆、お新香とメニューを指さしたら、先輩がさらにエビフライを食べたいとのこと。それで注文は完了。

 男同士の話だから、昔、いっしょにやり遂げた大きなプロジェクトの話になり、懐かしい課長の話になり、さらには政治の話になった。安倍さんのやり口は本当に汚いと意見は合った。

 古い銀座の店はどんどんなくなっている。そして跡地にはブランドの専門店ばかり。昔あった「銀座百点」の小冊子も、薄くなってしまって、個性のある古い店はほとんど姿を消した。これでは、全く面白くもない。ここも外国人だらけだ。大きなスーツケースを引いて、歩道を我が物顔にグループで歩いている中国人。まるで、占領されているようだ。

 記憶のある店を、5丁目から数えてみると、菊水、かねまつ、ヨシノヤ、ワシントン、鳩居堂あたりだ。僕には、菊水が懐かしい。パイプをやっていた頃、何度も足を運んだところ。アイルランドのピーターソンにクラックを入れてしまい、銀巻の修理をしてもらった覚えがある。



<銀座>

 二人で、銀座で目の前に銀座通りを見渡せる唯一の喫茶店、文明堂に入って、お店のブレンドを飲む。先輩は昼のアルコールが利いたようで、赤い顔。少し眠いやということで、お開きに。店のレジの人に、頑張ってこの店を続けて下さいと挨拶をして、4丁目の地下鉄の入り口で別れて、一人、有楽町に戻った。

 先日の軽井沢銀座でも感じたことだが、名前の知られている有名なところは、ご本家の銀座を含めて、金持ちの外国人に幅をきかされ、日本人は肩身の狭い思いをしているようだ。いつか日本人の客は嫌になって、寄り付かなくなるかもしれないなどと思った午後の時間だった。伝統ある街を守ることは、本当に大変なことだと、粋だった旦那衆のため息が聞こえた気がした。

 美しい秋晴れの好天だったが、ちょっと暗い思いの時間にもなった。