M.シュナウザー・チェルト君のパパ、「てつんどの独り言」 

「チェルト君のひとりごと」は電子ブックへ移りましたhttp://forkn.jp/book/4496

ぶらり銀座

2017-06-18 | エッセイ



 僕の家から山手線経由でも、地下鉄経由でも、1時間で銀座に出られる。かなり気楽に銀座を歩ける環境にある。幸いだ。



 <泰明小学校>

 谷中に住んでいた頃には、団子坂下から都電一本で八丁目まで行けた銀座の町だ。だから懐かしくもあり、変遷に寂しくなったりもする。最近の銀座の変わりようは、全くつまらないと思う。やたらブランド品の店が古くからの個人商店を押しのけて、街の当然の住人のような顔をしているのが気に食わない。昔からの小さな店が、どんどん消えていっているのは残念だ。銀座の個性を失っているといっていいだろう。

 もうせんは、「銀座百点(銀座の有名店の会が出版)」という小冊子を見ながら、この店、最近行っていないなあなんて楽しんでいたが、今は、本当に参加店は100店くらいになってしまった。つまり、ちょっと覗いてみようかという店がなくなったということだ。

 今でも、銀座に出かけると、決まって寄る店は決まっている。しかし、その数も減ってきている。

 食い物屋から行けば、一丁目にあったドイツ風レストラン、「つばめグリル」。ここにあった本店は、ついに戻ってはこなかった。真ん中にキッチンを置いて、前の銀座通りに客席があり、キッチンの横を通って、裏に抜けるとあずま通りに面した、ちょっと隠れ家のような客席があった。銀座の表通りから、裏道までつながる楽しい店の作りだった。今は銀座コアに店があるが、全く個性のない店だ。味も落ちた気がする。



 <つばめグリル>

 食べ物屋で極端に減ったと感じるのは、蕎麦屋。確実に減っている。蕎麦食いの僕にとっては大問題。昼飯を軽く…と思っても、さあ店がない。昔は四丁目の角の日産のショールームの並びに銀座砂場があったが、もうない。蕎麦屋探しは続いている。サエグサの裏手に見つけたTSは、蕎麦はうまいが、客扱いが悪い。店が狭いから、慌てて食べて、次のお客に席を譲らなければならない気分になってっしまう。七丁目にあったTAも5丁目に引っ越して、TVに出て客が増えた。客が増えるのは良いことだが、客扱いがぞんざいになるのはいただけない。穴場の蕎麦屋があったら、こっそりコメントで教えてほしいと持っているくらいだ。

 

<伊東屋>

 昔からのひいき、GINZA MATSUYAは変わらずにいてくれて、安心だ。残念なのは、隣の伊東屋(1904年創業の文房具の専門店)さん。銀座に出る楽しみの一つが、伊東屋さんだった。ここ、何年かかけてリノヴェーションしたが、そこで間違った。入り口の高い吹き抜けの大切な空間を無くしてしまった。三階からも、一階ではどんなもようしをやってんだろうと眺めて、行ってみようかという気になる。人を待っているときなど、待ち人が入り口に駆け込んできるのを上の階から見ていることが出来た。縦にも目線の移動が可能だったのだ。しかし、今は各階が天井で仕切られてしまって、息苦しい。つまらなくなったから。足が遠のく。

 今回、イタリア映画祭をマリオンに見に行って、ぶらりと銀座を歩いていたら、新しい店が見つかった。

 僕が買えることはまずない、高級外車のショールームが一つ。カネの無い僕には無関係な空間が、僕を招き入れてくれた。人はほとんど入っていない。美しいヨーロッパの名車が、無造作に床にある。見せてもらってもいいですかと声を掛けたら、買いそうにもない僕に、どうぞとにこやかな笑顔が答えてくれた。店の名前は、「車G735」とある。なんだか奇妙な名前だ。後で調べたら、案の定、住所G:銀座7丁目3番5号からとった名前だった。

 

<ランボルギーニ>



 <マセラッティ>

 ロールスロイス、ポルシェカイエン、アストンマーチン、ランボルギー二、マセラッティなどの美しい車が並んでいる。写真を撮ってもいいですかと聞いて、了解を得て写真を何枚かとった。やはり日本の車にはない気品あるデザインが美しい。中でも、マセラッティなんて、これまで近寄ったこともない。思えば、僕の息子が小学校高学年の頃、2人で作ったプラモデルの実物が並んでいた。日本ではなかなか見られないマセラッティの側でポーズを決めて、写真を撮ってもらった。買えるものではないが、美しい。

 

<為永画廊>

 その流れで、前回見つけた交詢社通りの為永ギャラリーも覗いてみる。ここも、高級な売り絵の画廊で、カネのない僕には無縁な店だ。しかし、画廊だから、僕も入っていることが出来る。「紙に描いた名品展」をやっていた。見せていただきますよと一声かけて、歩みこむ。ディフィ、フジタ、ピカソ、ビュッフェなどの紙に描いた商品の中に、僕の好きなシャガールを見出して、うれしくてにんまりとなる。ここは、日本で初めてエコールドパリ派の絵の収集を始めた老舗の画廊だ。相手は日本人のコレクター。いい絵を楽しむのに遠慮はいらない。貧富の差も関係ない。楽しんで来ればよい。



 <ガード下>

 小腹もすいて、のども乾いたから、ちょっと飲もうかと考える。しかし、昼間の3時から飲めるところは、7丁目のライオンか、数寄屋橋のニュートーキョーくらいになってしまう。それでは詰まらない。

 そこで、有楽町のガード下まで足を延ばせば、うまいレモンハイと焼き鳥(ホルモン)が、他の多くの飲ん兵とともに僕を待っていてくれる。ぶらり銀座の醍醐味だ。若いフランス女性が、興味深そうに店の写真に撮っていた。

 カネのない僕にも、まだ楽しめる銀座がある。


「歓びのトスカーナ」

2017-06-04 | エッセイ

 2001年のイタリア年から始まった、17年の歴史を持つ「イタリア映画祭・2017」を数寄屋橋マリオンで見て来た。9年連続、欠かさず見てきている。日本ではなかなか見られない現代イタリア映画15本の新作を、ゴールデンウイークに上映している。イタリア文化会館と朝日新聞、そしてチネチッタが主催で、イタリア大使館が後援しているすばらしい企画だ。



 <2017年イタリア映画祭>

  今年観たのは、「歓びのトスカーナ」という作品。

 

 <歓びのトスカーナのポスター>

 今回、僕は選択を誤った。「歓びのトスカーナ」という題名と、ブローシャーにある赤いランチャのオープンカーとトスカーナらしい風景を見て、この映画を選んだ。これが大きな間違いだった。トスカーナと聞けば、僕の中には2012年に車を転がした2週間のトスカーナの旅の思い出が蘇り、シエナ、オルチャ渓谷、サンジミニアーノ、モンタルチーノ、ルッカなどの長閑なトスカーナの景色をもう一度見たいという気持ちが強く湧いていたからだ。

 しかし、その思いは、もろくも崩れた。最近の流れで今年も喜劇を選んで観たつもりだったが、今回は喜劇でもなかった。喜劇的な場面もあるが、見終わるとシリアスな人生の物語だった。

 場所は確かにトスカーナのピストイアとか、温泉のモンテカチーノとか、ヴィアレジョが舞台だが、トスカーナの風景を楽しめることはなかった。

 さらに、日本語の題名「歓びのトスカーナ」は、全くの誤訳だと強く思う。歓びは最後には湧いてきたが、それはトスカーナという場所とは無関係だった。完全に、名は体を表していない題名だ。

 イタリア語の原題は、”La pazza gioia”、直訳すれば「狂人の歓び」という映画だったのだ。この題名の方が、内容としてはふさわしいと思う。少し精神を病んだ二人の女の、最終的には感動を与えてくれる物語だったからだ。

 作品紹介

「歓びのトスカーナ」 2016年/116分

原題:La pazza gioia
監督:パオロ・ヴィルジ Paolo Virzi
主演者と役割:
テデスキ:ベアトーチェ役
ミカエラ・ラマッツォッティ:ドナテッラ役


 
 <この映画のブローシャー>

 僕の書くあらすじ

 絶え間なく喋りまくる元侯爵夫人と自称しているベアトリーチェと、うつの傾向の強い口数の少ないドナッテラの二人が、トスカーナ・ピストイアのメンタルディスオーダーの治療施設で出会う。ベアトリーチェは、遺言は書き換えられていて、事実上は一文無し。心の中の不安を忘れるためにしゃべりまくる。方や、ドナッテロは強度のうつ症状が出て、抗うつ剤のお世話になっている元ダンサー。全身にタトゥーを入れ、息子を取り上げられた経緯を持つ。

 ある日、2人はリハビリの散歩中にバスに乗り逃走する。ヒッチハイクにも助けられ、さらにはかっぱらったオープンカーをドナテッラが運転して、ショッピングモールや、温泉施設を尋ね、カネもない、薬もない、ゴールもない旅をする。

 

 <ランチャのオープンカー>

 そんな中、ドナテッラが息子のマウリッツオ道ずれに心中しようとしたことをベアトリーチェに打ち明ける。二人は、この世界を共有する友達になる。

 息子を引き取ってくれた家を訪ね、ドナテッラは自分を母だと知らぬ息子と言葉を交わす。また会おうね…と。そして、クライマックスは、ヴィアレッジョの海で、自分の息子と砂浜で遊ぶことが出来たドナテッラの姿だ。息子を育ててくれた夫婦は、こみ上げる涙を押さえて、遊ぶ二人を無言で見守る。ドナッテラは、母とは名乗らずに収容所に戻っていく。

 ドナテッラの心には、新しい人生を生きなおすという、新しい目的が芽生えていた。

 感想

 このアイロニーと、ユーモアと、病気を伴った人生ドラマが、人生の不完全さをにじませながら観客に迫ってくる。見終わった観客には、きっと、この二人は近く立ち直り、新しい人生を歩き始めるという、明るい、確かな将来の路程が透けて見えてくるはずだ。二人の主演者と、息子の存在が大きく、監督のいざなう心情が伝わってきたすばらしい人生ドラマだった。


 

 <2017 スポンサー>

 以前はイタリアブームで、この映画祭への観客の全国的な期待値も高く、なかなかチケットが手に入れられなかった状況だった。しかし、最近、乗客数は減っている。平土間では、一列毎に、客を入れない列を設けて客を座らせていた。見る方からすれば、前の人の頭をよけながら、映画を見るということを解決してくれる配慮だ。しかし、観客数は減った。しかも、若者がいない。

 映画祭のHPのコンテンツも貧しくなり、フェラガモのリーフレットの質も下がったような気がした。少し下り坂に入ってのかもしれない。もっと多くの日本の人に、人間を丹念に描いているイタリア映画を見てもらいたいと思うのだが。

 朝日ホールを出て銀座を歩くと、ゴールデンウイークだから、人がごった返していた。

 

 <ごった返す銀座>

 趣味の悪いGinza Sixに、人の列ができていた。いやだ、いやだ。


P.S. 
<歓びのトスカーナのポスター>と<ごった返す銀座>以外の絵は、
「2017イタリア映画祭」のブローシャーとHPよりお借りしました。