その1の続きです
<転轍機>
<人生の分岐:全て>
分岐6 (他の人の決定)
日本IBMに入ってアメリカを中心とする海外との関係で仕事を進めていましたが、30歳直前、僕はフランスのエッソンヌというところに駐在員として赴任するという内示を受けました。僕は喜んでその内示を受けました。なぜならば英語に比べてフランス語はとても美しい言葉で、法政の頃、外堀の向こうの日仏学院を訪ねて、フランス語の勉強を始めようと面接した時、フランス語の美しさに惹かれました。
僕にとっては、フランス語を磨くとても良い機会だと思っていました。しかし出発の3ヶ月ぐらい前だったと思いますが、赴任する先がフランスからイタリア・ミラノに変更になりました。6つ目の転換、イタリアへの進路変更になりました。
<ミラノ>
イタリアに行ってみると、全く日本では考えられなかった世界が広がっていました。特に彼らの「家庭」と「仕事」と「その他の社会的活動」に驚きました。彼らは常に3つ以上の「世界」を持っていました。それは僕にとっては新しい生活の基準に見えました。
分岐7 (自分の選択)
2年の駐在を終えて日本に帰ったとき、イタリアでの経験を踏まえて業務システム開発の仕事に就くことになりました。コンピーターを道具として、仕事のやり方を設計するという新しい業務設計の手法をイタリアIBMで勉強したからです。
分岐8 (他の人の選択)
IBMが製品開発製造の支援システムを、世界共通システムに方向を定めたという外的な要因でした。それまでは日本独自で、フランスのモンペリエの開発したERPを動かして仕事を支援していましたが、急遽、CMISという米国IBMステムに乗り換えることになりました。
分岐9 (他の人の選択)
アメリカとの共同システム開発という仕事が、僕に課せられました。その中心にCMISというシステムを置くことになり、ニューヨーク州、スターリング・フォレストで始まった仕事は、日本固有機能のシステム設計でした。
<スターリング・フォレスト NY州>
その頃、日本ではコンピューターと言えば=IBMで、通産省が主導して国産コンピューターをNEC、富士通、日立に開発させる戦略を立てて実行していました。通産省は日本マーケットでのIBMの独占を抑えるという至上命令を実行することでした。
作戦の1つとして、日本IBMに難しい要求を突きつけてきました。それは日本から輸出するIBMコンピューターを、国内用のものと完全に分離して、保税状態(日本の関税を払わずに)で輸出用マシンを作ると言うシステムを確立することが要求されました。通産省の差金で大蔵省の関税局あたりが考えた嫌がらせの1つのだったかもしれません。
僕はスターリング・フォレストのシステム設計者と3カ月間、共に働き、日本政府がIBMに要求した機能をCMISに組み入れると言う難しい設計作業を完了しました。設計者は何を期待されているのかが正確には理解できなかったようで、僕がそこに駐在して、最初の客先の受注管理から、生産計画の確立、部品必要量の計算、発注、在庫管理、払い出し、原価計算、そして完成報告までのすべての業務において、この保税対象の仕分けが出来るようなシステムを共同設計しました。
こうした設計をシステムに組み込み、日本IBMがアジア全般のシステム/360の製造、輸出、販売することができるようになったわけです。つまり日本IBMの根幹のシステム構築ができたと言えるでしょう。
IBM本社からも上級役員が来日し、盛大な完成祝式典が鵠沼海岸の三笠会館を借り切って行われました。しかし、その夜、僕は仮眠を取ったもののアルコールの残った状態で車を運転し、右手を5か所も骨折するという自損事故を起こしました。速、課長職を解かれ、アイスホッケーでいうマイナーペナルティ2年間を、部長付きで過ごしました。
<日本IBM 開発製造システム アーキテクチャー>
最終的には、日本IBMの製品開発製造部門のアプリケーション全体に対する責任者になりました。僕は日々、同じ仕事をやるということにはできなくて、常に新しいことをやっていくということしかできない性格でした。システムの開発は、常に新しいプロジェクトへのチャレンジでしたから、飽きることもなく、20年ほどをこのキャリアで歩んできました。
分岐10 (自分の選択)
50歳近くになったころ、IBMではコンサルタント業界に進出する決定がされました。日本IBMでも開始することになり、システム開発に精通した人材募集が全社で行われました。僕の部下、約500名の中から誰を推薦するかと考えましたが、まず僕自身がやってみて、その結果で人選を進めることが正しいだろうとボスに話をしました。20年間携わったIBM開発製造のアプリケーション担当をやめました。
各部門からの10名がコンサルタント教育を、すべて英語で受けることになりました。一年間のコンサルタントの教育をアメリカのトップレベルの社外講師たちから受け、コンサルタントの選別に合格し実務を開始しました。
<IBM コンサルタント教育のDiploma>
しかし心臓の状態が悪化し、コンサルタントのグループの中で、僕が足を引っ張るということになりました。皆が何日も徹夜をして業務をやっている傍らで、定時退社は僕にはできませんでした。
そこで僕に変わりとなる、自信を持って勧めることができるメンツを頭に思い浮かべながら人選を考えました。そこで行きついたのが、藤沢の生産技術部長をやっていたO氏でした。SEの経験を持つ彼を頼み拝み倒して、部長をやめてコンサルへ転向の道を強く勧めました。彼は、僕の願いを受け入れて、IBMのITコンサルタントのメインプレーヤーになって製造業の業界で大きな成果を上げてくれました。
分岐11 (自分の選択)
僕自身は、実は20年ほど前から個人的に勉強していたTAのカウンセラーの仕事がやりたくて、岡野嘉宏先生(会社のリーダーシップ教育で知った「TAとゲシュタルトセラピー」によるリーダーシップトレーナーであり、TAベースのセラピストの日本における第一者)に師事し、勉強し、研究部会に出席し、仕上げとして3週間のアメリカのインターナショナル・ワークショップに参画し、キャリアを積んでいました。それをもとに岡野先生に、IBMを退職します。先生の弟子にしてくださいと申し入れをしましたが、基本的には個人のキャリアとカリスマ性がカウンセラーの資質の要件だと言われ、先生の弟子になることができませんでした。
<カウンセリング TA>
岡野先生の助言、心の母となったアメリカのミュリエル・ジェームズ博士(TAの創始者:エリック・バーンの最後の直弟子)の援助などを受けながら、カウンセラーとして自立する道を選び、日本IBMを54歳で早期退職することにしました。
<ミュリエル・ジェームス博士 Muriel James PHD>
なぜこんな道を選んだかと言えば30代の頃イタリアで生活し、仕事、家庭ともう一つの世界と言う3つの世界が、常識であると心した結果、従来、仕事と家庭以外の新しい領域として、カウンセラーを選んで学んでいたわけです。IBMにはA&Cと言うシステムがあって、毎年、ボスと部下が共同で、業務計画と自己育成計画の両面から計画を作り、ドキュメント化し、中間点でチェックを入れ、最終的に年末に、その成果、進捗状況評価をするというシステムがありました。
僕は500人ぐらいのエンジニアをもっていましたから、カウンセリングのたくさんの実例を経験することができたわけです。対人関係の世界で、人間が変わっていくことを援助することができるという喜びを感じ、この仕事を選んだわけです。
分岐12 (自分の選択)
しかし神様はトラップを仕掛けていました。それは僕の心臓の病気の問題です。僕自身は健康診断で30歳の頃から心臓に遺伝性の問題を持っている事は知っていました。しかし、徹夜を含めて開発製造アプリケーションの開発に責任を持って進めることができていました。その病気が顕在化するとは思っていませんでした。
カウンセリングを始めて、まだ10年なのに、カウンセラーを辞めざるをえなくなりました。残念ながら心臓君が言うことを聞いてくれなくなりました。それは心房細動という心臓の病気でした。脈拍数が170以上になると、救急車で電気ショックを受けに病院に入院することが必要でした。クライアントとのアポイントメントをドタキャンをしたりして迷惑をかける状況になりました。
仕方なく病気治療中心の生活を余儀なくされました。4度にわたる心臓のカテーテル・アブレーション手術の結果、無理はできませんが、まぁ普通に生活ができる状況になりました。
<ボランティア 仙台>
僕は、もともとカウンセラーと同時に語学ボランティアをやっていました。その道にフルタイムで進みたいと思ったのですが、やはりアポイントメントをきちっと守るという信頼を得ることができない状況だと気が付きました。今は自分の頭の中にあることをダンプして文章に残すという事をやっています。
未定の分岐
79年の年月を振り返ってみると、現在の世界が僕にとっての必然なのだなあと思っています。すべての分岐が積み上がったのが今なのですから。
長くなりましたが、ここで終りとします。