M.シュナウザー・チェルト君のパパ、「てつんどの独り言」 

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エミリアが天国へ Emilia passed to the heaven(英語版)

2019-12-22 | エッセイ

 お許しをお願いします。エミリアの親戚より英語版のアップが要請されました。日本語版の後に載せます。残念ながら、イタリア語では、文章は書けない僕なので…。

 

 日本語版

  イタリア人の友達、エミリオの奥様、エミリアが亡くなったことを知ったのは、Facebookでだった。 

 僕が、ミラノに最初に赴任したのは1970年。その時、エミリオと友達になったから、もう50年来の友人ということになる。 

 初めてミラノの彼らのマンションを(イタリアではマンションとは言わず、アバルタメントと言う)にお伺いした時、びっくりしたのは、かなりの高層階の角部屋だったけれど、そこに立派な暖炉があって火が燃えていたことだ。ミラノの冬は寒いから普通はリスカルダメントと呼ばれる水蒸気か温水を循環させる方法だが、ここには燃えるストーブもあった。日本のアパートでは考えられないことで、とても羨やましく思ったことを思い出す。

 

<マドンナ・ディ・カンピリオ ドロミティ> 

 夏、彼らはドロミティ山塊の西の、ドロミティ・ディ・ブレンタにあるマドンナ・ディ・カンピリオに別荘を持っていて、息子のフルビオを訪れて3人で過ごしていた。エミリオは仕事があったので、ウィークデイはミラノで一人、仕事をして、週末にはガルダ湖を経由で300㎞を3時間程運転して家族のもとに帰っていた。彼の車は、憧れの赤のアルファ・ジュリアだった。 

 単身赴任だった僕を、エミリオは淋しいだろうと思ってマドンナ・ディ・カンピリオの別荘によんでくれた。正確には覚えてないが2回位の週末を、そこで彼らと過ごしたと思う。彼らと、一緒に山に登り、滝の見える草原でピクニックをやり、庭に掛るハンモックでフルビオと一緒に昼寝をし、山の新鮮な空気を楽しんだ記憶は鮮明だ。 

 夜になると夫婦は、星空を見上げながら山の村に散歩に出かけていた。僕も勿論、ついて行った。平均的なイタリア人は、こうやって夏を過ごすんだなあと、うらやましい思い出が残った。エミリアはとても親切に僕に接してくれて、うれしい時間を持てたのは忘れない。この時、エミリアのチャーミングな、少しいたずらっぽい笑顔を僕が知ることになった。 

 イタリアから帰国してからも、仕事でエミリオとは交流は続き、彼が日本に来たりして長い付き合いになった。彼を、会社の近くの藤沢・湘南台の日本料理屋に連れて行って、馬刺しを食わしたことがある。イタリア人は馬の肉は食べないらしく、後で、ぎょっとした顔になったのは忘れない。

<連名のクリスマスカード>  

 エミリアとは、その後クリスマスカードにエミリオと一緒にサインしてくれる位で、エミリアとの時間はなかった。 

 その後、彼らはドロミティからスイス・サンモリッツに近いリヴィーニョに新たな別荘を持った。リヴィーニョは冬のスキー場でもあったから、ミラノから近いからということもあったのだろう。フルビオも大きくなって、きっとスキーを始めたに違いない。僕はリヴィーニョの彼の家には行ったことは無いが、いつだったかドロミティから、ベルニナ峠経由でサンモリッツにもどった時に、リヴィーニョを通った。リヴィーニョは美しい谷の村だった。 

 毎年、クリスマスカードを交換し、メールのやり取りや、時には電話をしながら、連絡を取り合って、長い時間がすぎた。

 

<リヴィーニョからのクリスマスカード> 

 僕がIBMを早期退職してウンセラーの仕事を始めて、少し自由な時間が持てたので、イタリアには3、4週間の里帰りを4回した。最初が1997年だったと思う。エミリオに連絡していたので、彼がミラノまで僕を迎えに来てくれて、彼らの住む、F1のサーキットとして有名なモンツアの彼らのアバルトメントに招待された。フルビオは別に住んでいて、パオラという妹が、僕たちのパーティーに参加してくれた。今、写真を見ると、僕自身もエミリオもエミリアも若い。

 

<エミリオとエミリア、そしてパオラ> 

 エミリアは筋無力症という難しい病気を抱えていた。僕も心臓に病気を持っているので、お互いにそのあたりの感情を共有することができた。その後、僕がFacebookを始めて何気なく見ていたら、ペンギンの顔を付したエミリアがFBにいた。エミリアのみならずエミリオも時々、エミリアのFacebookに現れて、自慢げに8人も孫ができたよと教えてくれたりした。

 

<エミリアとお孫さん> 

 2012年にイタリアに行った時に、会おうかと思ったが、スケジュールの関係でミラノにいる時間が短く、会うことができなかった。 

 お互いの年も考えて、いつ会える日があるか分からないなと言うことになって、「最後のミラノ行き」と考えて2016年にミラノに行った時、2人と会った。彼らはもう80歳を超えていたが、モンツアから車を走らせて、僕の住んでいた懐かしいコルソ・ブエノス・アイレスの僕のホテルまで訪ねてくれた。

 

<コルソ・ブエノス・アイレスの昼食> 

 モンツアの家に来てくれればよかったのにと、エミリアが言ったけれど、僕はこれこれからのスケジュールがあるので、今日一日、一緒に時間を過ごして、またの機会を持とうと言った。コルソ・ブエノス・アイレスのテラス席で、一緒に軽い昼食を食べながら、お互いに長いご無沙汰を話しで埋めた。 

 どこかに行きたいところがあるかとエミリアに聞かれたので、僕はネットで知っていたポルタ・ヌオバの「縦の森」へ行ってみたいと言った。エミリオは立派なドイツ車を購入していて、豊かな生活がそこにあることを知った。ガリバルディ駅のすぐそばにあるポルタ・ヌオバの広場にその建物が立っていた。想像を超えた素晴らしいアイディアの高層マンションだった。このデザインはその後、世界的に優秀デザインと認められ、世界中に広まっている。これが、エミリアと過ごした最後の時間になった。

 

<縦の森 2016年>

 Facebookでなぜエミリアが天国に旅立ったことを知ったかを話しておこう。 

 おせっかいなFBが今年(2019)の10月に、「エミリアと僕が友達になって、7年経過、おめでとう」と、僕に知らせてくれた。それに「いいね」をしたら、エミリアーナ というイタリア女性から、メッセージをもらった。彼女はエミリアの姪っ子で、僕がエミリアと友達だったことを知り、エミリアが今年の8月に天国に召されたと教えてくれた。エミリオからは、何も聞いていなかったので、今年のクリスマスカードを3日前に買ったばかりだったが、慌ててお悔みカードを新たに買って、エミリオ、元気でいてくれよと書いた。

 

<Facebookからの知らせ> 

 エミリアーナにエミリオはどうしているのかと聞いたら、時々は、子供たちとすごしているとあった。独りぼっちでは、かなわないなからなあ…と思う。

 

<3年たった縦の森 2019> 

  先日、銀座・伊東屋で買ったエミリオとエミリアに出そうとしたクリスマスカードは今、手元にある。 

  とにかく、知人が減っていくのはつらいものだ。

 

 

英語版

Emilia passed to the heaven 

It was on Facebook that I learned that my Italian friend, Emilio's wife, Emilia, had died.

I have been assigned to Milan in 1970 at first. At that time, I became friends with Emilio, so I have been friends for 50 years.

When I first visited their apartments in Milan, I was surprised to find a very high-rise corner room with a magnificent fireplace. The fire was on fire. Because Milan is cold in winter, it usually a method of circulating steam or warm water called “riscaldamento”, but there was also a burning stove there. I remember that I was very jealous because I couldn't think of this in a Japanese apartment.

 

In summer, they had a villa in Madonna di Campiglio in Dolomite di Brenta, west of the Dolomite massif, and they, three of the family with a son, Fulvio are visiting there. Since Emilio had a job, Weekday worked alone in Milan, and on weekends he returned to his family by driving 300 km through Lake Garda for about 3 hours. His car was the longing red Alfa Gulia.

I have been invited to came over to a villa in Madonna Di Campiglio by Emilio giving a consideration I would be solitude when I was single at the assignment. I don't remember exactly, but I think I spent two weekends there. I remember climbing the mountain with them, having a picnic on the meadow with a waterfall, taking a nap with Fulvio in a hammock in the garden, and enjoying the fresh air of the mountains.

At night, the couple went for a walk in the mountain village looking up at the starry sky. I followed, of course. I felt envy to see the average Italian could have spending summer this way. I remember Emilia was very kind to me and had a great time. At this time, I became aware of Emilia's charming, slightly mischievous smile.

Even after returning from Italy, I continued to interact with Emilio at work, and when he came to Japan, I took him to a Japanese restaurant near Fujisawa / Shonandai and ate a horse sashimi. The Italians don't seem to eat horse meat, and I don't forget that later he became a stubborn face.

 

Emilia sometimes signed up with Emilio on the Christmas card, and I had no direct time with Emilia.

After that, they had a new villa in Livigno, near St. Moritz, Switzerland. Livigno was also a winter ski area, so it might have been close to Milan. I'm sure that Fulvio started skiing there. I have never been to Livigno's house, but when I returned to St. Moritz via the Bernina pass from Dolomite, I passed Livigno. Livigno was a beautiful valley village.

Every year, we exchanged Christmas cards, exchanged emails, and sometimes made phone calls and kept in touch.

 

Since I retired from IBM early and started working as a TA counsellor, I had a little free time, so I went to Italy four times in three or four weeks. I think it was 1997. I had contacted Emilio, so he came to pick me up in Milan and was invited to their apartment in Monza, famous as the F1 circuit. Fulvio lives separately, and his sister Paola took part in our party. Looking at the photos now, I myself, Emilio, and Emilia are young.

<Emilio, Emilia, and Paola>

Emilia had a difficult illness called myasthenia. I also have heart problems, so I was able to share feelings with each other. After time has passed, when I started Facebook I found casually, Emilia with a penguin face in FB. Emilia as well as Emilio sometimes appeared on Emilia's Facebook and proudly told me that eight grandchildren were made.

<Emilia and grandchild>

When I went to Italy in 2012, I thought I would meet with them, but because of my schedule, I had a short time in Milan and couldn't meet.

I thought of each other's year and I didn't know when I could meet with them, so when I went to Milan in 2016 to think of "the last trip to Milan", I met two. They were over 80 years old, but they drove from Monza and visited my hotel at Corso Buenos Aires, which is a nostalgic place where I lived nearby.

 

Emilia said that he should have come to the house in Monza, but I have busy schedule, so I said that I would spend time together today and let have another opportunity. At the terrace seat of Corso Buenos Aires, we had a light lunch together and filled up a long nostalgic conversation with each other.

When Emilia asked me if I wanted to go somewhere in Milan, I said I wanted to go to Porta Nuova's “Vertical Forest”, which I knew on the net. Emilio bought a fine German car and I learned that there was a rich life there. The building stood in the Porta Nuova square, right next to Garibaldi station. It was a high-rise apartment with amazing ideas beyond imagination. This design has since been recognized as an excellent design worldwide and has spread throughout the world. This was the last time I spent with Emilia.

I want to tell you how I found out that Emilia had traveled to the heaven on Facebook.

 

An officious FB informed me in October of this year(2019), “Congratulations, Emilia and you have become friends, 7 years have passed.” When I clicked “GOOD” at it, I received a message from an Italian woman named Emiliana. She was Emila's niece and learned that I was a friend of Emilia on Facebook and told me that Emilia was called to heaven in August of this year. I hadn't heard anything from Emilio, so I just had bought this year's Christmas card 3 days before this sad news. Then in a hurry, I bought a sympathy card and wrote that Emilio, you should be fine even alone.

When I asked Emiliana what Emilio was doing, she said that sometimes he was spending time with his children. I don't think I can do it alone.

 

A Christmas card I had bought at Ginza to send to Emilio and Emilia is here on my palm now.

Anyway, it is very sad and hard for me to know the decreasing of the number of acquaintances and friends.

THE END

December 2019 at YOKOHAMA


恒例のカレンダー

2019-12-08 | エッセイ

 

 今年も、来年のカレンダーを手配する時期がやってきた。普通のカレンダーだったら、横浜でも買えそうなのだが、なかなか気に入ったものが見つからない。有隣堂を試してみても、かなり妥協せざるをえないことになる。

 

<2か月カレンダー> 

 それは僕が探しているカレンダーが、最近はあまり一般的ではないからだろう。僕が探しているのは、常に2か月先までの予定が書き込める2か月カレンダーだからだ。カレンダーの管理は、もちろんiPhoneに入れて持ち歩いているが、居間に掛けておくカレンダーは、瞬間的にどこが空いているかが分かる大きなカレンダーにはかなわない。特に電話で話しているときなど、とても助かる。

 

<伊東屋> 

 この手のカレンダーは少ないから、選べる店となると、銀座の伊東屋さん迄出かけることになる。今年も、そんな時期がやってきた。改装で、天井が低くなって開放感が失われた店にぶつぶつ言いながら、カレンダーを地下で探した。昨年は、スイスのアルプスで妥協したが、今年はオルセーの絵のシリーズがあったので、これに決めた。ついでに、クリスマスカードと、来年の高橋の手帳を手に入れた。それにしても、伊東屋の動線設計は全く駄目だ。エレベーターもとても遅い。エスカレーターでもあれば、色んなものに目がいって、楽しいだろうに。 

 銀座に出るときは、昼飯を食うことにしている。有楽町駅から伊東屋迄歩いたから、また泰明小学校の先のいつものよし田まで戻るのも、めんどうくさい。妥協するかと、銀座松屋のレストラン街で、蕎麦屋を探した。初めての店だったが、雰囲気は落ち着いた感じだったので、明月庵田中屋に入ってみた。

 

<松屋の田中屋> 

 蕎麦を食うとなると、僕の好みはいつも、どこでも、鴨せいろだ。値段は高い。しかし、これを頼むと、その店の出来がよくわかる。今回の名月庵は合格だった。問題は、そば。更科までは白くはないが、香りがしない。そして、箸で3回ぐらい寄せると、無くなってしまうくらいの盛りだった。鴨は余分な脂肪を削いであって、しかも味は素晴らしかったのだが。それにしても1700円は高い気がする。

 

<有楽町のガード下 トントン> 

 このまま、帰ってしまうのもつまらない。昼間からちょっと飲めるところというと、有楽町の新橋寄りのガード下の、トントンふじとかいうことになるが、あそこまで戻るのも歩き疲れるのでいやだ。それに、必ずしも、5時前に開いているとは限らない。帰りは、京急線直通の東銀座駅で地下鉄に乗るのだから、遠くまではいきたくはない。我がままは許してもらうとして、銀座の裏道を勘を頼りに歩いて見る。仕方ないので、ライオンまで歩くかと思っていたら、小さな飲み屋らしい店が見えた。 

 昼飯を出しているようで、人が入っていくのが見える。外観は、まるで、居酒屋だ。狭い階段を注意深く降りていくと、長万部というまさに居酒屋。

 

<長万部> 

 昼間だけど、飲めるって聞いたら、やってますよ、うちは、と言ってくれた。助かった。飯は食ってきたから、サワーでも飲みたいのだが、おすすめはと聞いたら、野菜サラダときた。 

 この長万部は、北海道の長万部のアンテナショップ的な居酒屋で、長万部の特産品の小鉢を出しているようだった。とにかくレモンサワーを注文して、メニューを探す。酒の肴は確かにいろいろあった。おすすめのサラダって、何が売りなのと聞いたら、山わさびをおろしたトッピングだという。それと、活きのいい海産物を、ウニで食べる一皿を取って、飲み始めた。 

 客は、大体は昼食のようだった。僕のように、昼間から飲んでいる人は見えなかったが、山わさびのサラダは、お勧め通り、うまかった。これはいい店が見つかったと、ニンマリ。 

 銀座に出ると、昼間から飲める店は非常に少ない。ニュートーキョーとかライオンとか、ビヤホールの感覚の店でしか飲めないのだ。店長に、いい店が見つかったよと言ったら、うちは昼も2時まで開けていますから、飲めますよと教えてくれた。これで、一ついい発見ができた。昼間の銀座でも、有楽町のガード下まで戻らなくても、居酒屋の雰囲気で飲めるのだ。うれしい発見だった。使わせてもらうよと、話しておいた。

 

<歌舞伎座の東銀座駅> 

 店からは三原橋の交差点に出れば、歌舞伎座はすぐそこ。京急直通の電車を待って、しっかり座って、カレンダーのデカイ袋をもって、横浜まで帰ってきた。 

 いい銀座だった。ちょっと楽しみが増えた気がする。