M.シュナウザー・チェルト君のパパ、「てつんどの独り言」 

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住むならサンフランシスコ

2015-01-28 | エッセイ

 アメリカでどこに住むかと聞かれたら、答えは即、サンフランシスコ。カナダのバンクーバーも同じような感じがあるが、寒そう。



<ゴールデンゲート橋>

 この二つの都市に共通すること、それは外国人に優しいことだろう。どちらも、彼らは英語を、外国語のようにしゃべってくれる、こちらが外国人だと分かると。外国の人たちに分かりやすく話してあげようという心が根っこにあるからだろう。

 僕のいた会社(アメリカの会社)では、大陸をまたぐ2週間以上の出張に出ると、帰りには途中泊として、好きなところに一泊、泊まれる仕組みになっていた。それに自分の休暇を足せば、何日かの自由な自分の時間をそこで持てた。何回ぐらいサンフランシスコにいたのだろうかと考えても、答えは出てこない。ざっと、5回以上10回以下のどこかだと思う。

 なぜサンフランシスコが良いというかといえば、答えは明快。人間が歩ける街ということだ。行くと分かると思うけど、アメリカでは車なしの生活は考えられない。最初に行ったニュージャージー州では、高速道路の反対側にあるスーパーマーケットに行くにも、車で高速に乗って一つ隣の出口まで行って、そこで一旦出て逆に走らないとモールにはたどり着けない。そんなことって、人間には許されないことだと思った。

 その観点で考えると、ヨーロッパの都市は人間が歩くということに、とてもフレンドリーだ。どこへでも、車が無くても移動できる。アメリカで他を探すと、僕の知る限りでは、ニューヨークのマンハッタンだ。けれど、サンフランシスコの空気とは違った、何か緊張感が漂うようだ。

 サンフランシスコは坂道の町。ケーブルカーが走っているから、ぽいと飛び乗れば、どこにでも二本の足で行ける。車社会のアメリカとは、全く違う都市生活をおくれるのだ。市内のほとんどは、このトラムに乗ればたどり着ける。



<ケーブルカー>

 安全の面でいうと、サンフランシスコ市庁舎の奥のあたりは危険があるようだと感じたけど、その他には怖いところは無いようだ。能天気でも歩ける街だ。

 シスコと言えば、フィッシャーマンズワーフ。こんなに楽しいところは無い。ニューヨークのような肉文化の中で、なん週間か過ごしていると、無性に魚介類が恋しくなる。蟹とか、ウニだとか、牡蛎だとか、寿司だとか、残念ながら焼き魚は見当たらないが、一応、期待には応えてくれる。しかも、パウエルからのケーブルカーで、シスコの町を楽しみながらやって来られるのだ。

 フィッシャーマンズワーフには、いろいろな思い出がある。



<フィッシャーマンズワーフ>

 一番は、スペイン人の友人と、いくつかのピアーを一緒に廻ったことだろう。3週間、タホ湖で一緒の時間をすごした彼は、スペイン・サラゴーサの歯科医師。人懐っこくて、二人してピアーを、一日楽しんだ。僕が今でも持っているカリビアン・バンドのスティールドラムのCDは、ここで彼と一緒に買ったものだ。しかし、彼は59歳で事故死。夭逝だった。その意味では、サンフランシスコは悲しみの想い出の地になってしまった。

 ワーフには、アザラシがウジャウジャと住んでいる。シーライオンといわれてるけれど、ワーフではゴロゴロ、日向ぼっこをしている変なやつ。ボートとか、桟橋の上に平然と横たわっている。よく見ると髭の面の可愛い奴だ。

 ケーブルカー、“I left my heart in San Francisco”で有名なケーブルカー。ロマンティックだけど、結構楽しい乗り物だ。

 坂道をかけ降りるケーブルカー、どうやってブレーキを掛けるか、あまり知られていない。実は、運転手さんが、体力のものをいわせて、手動でブレーキレバーを操作して、ケーブルカーの速度を加減している。もちろん止まる時は、フルブレーキ。ケーブルカーに乗っていると、これは見ものだ。

 さらに、ケーブルカーは設計上、前後、両方向に運転できるようには設計されていないから、終点には転車台:ターンテーブルがある。しかもそのターンテーブルは、運転手と、車掌と、そこにいる係ので人力でまわしている。それを眺めるのも楽しみだ。

 ただし、ケーブルカーは、車の運転にとっては鬼門。左折はケーブルカーの線路をまたいでやるから、面倒な交通規制に従うしかない。ケーブルカーが最優先だ。

 チビの頃の息子への土産は簡単だった。レゴをどんどん買い貯めていった。最初のアメリカ出張の時から、それは変わらない。行く度に、新しいピースが必ずあるのだ。しかし、下の娘には、何を買って帰ればいいか、いつも迷ってしまう。最初の頃は、バービー人形を買って帰った。次の時には、バービーの洋服を買い足していった。でも、小学生の高学年になると、そうはいかない。

 迷いに迷って、ユニオン・スクエアーの近くで、サンフランシスコ、オリジナルの財布を見つけた。淡い緑色と、オレンジのしっかりした革の財布だった。今も持っていてくれるかどうかは分からない。でも、とても喜んでくれたのは覚えている。



<バークレイ>

 アメリカで、女友達らしき会話が出来たのも、サンフランシスコ。バークレイの学生で、ゴールデンゲートブリッジの先を左に入った高台までドライブしたことがある。そこからは、ゴールデンゲートブリッジとサンフランシスコの街が一緒に見え、右の方には太平洋の水平線が見えた。特別親しくなったわけではないが、異邦人の僕にとって、憧れのサンフランシスコで出合った美しい女子大生だった。

 懐かしい。けれど、もう12時間のフライトを飛ぼうとは思わない。やはり、「思いでのサンフランシスコ」になってしまった。



P.S.借用した写真の情報

ケーブルカー
<この写真は、flickrからJeremyさんの“P1040961”をお借りしました>

クリエイティブ・コモンズ・ライセンスこの 作品 は クリエイティブ・コモンズ 表示 2.1 日本 ライセンスの下に提供されています。

バークレイ
<この写真は、flickrからSzalwnskiさんの“The love of running”をお借りしました>

クリエイティブ・コモンズ・ライセンスこの 作品 は クリエイティブ・コモンズ 表示 2.1 日本 ライセンスの下に提供されています。

懐かしい人との再会、3件 (カスケットリストの項目)

2015-01-14 | エッセイ



3月: 20年ぶりにIBM大和研究所長補佐、Mさんと再会 たまプラーザ 

  
 IBMのR&D研究所長の補佐だったMさん。僕がIT部長をしていたころ、研究所長補佐の部屋にぶらりと入り込み、馬鹿話をしてリラックスしていたのが、Mさん。

 あれから20年。会いたい、会いたいとお互いにいいつつ、お互いの健康の問題などで2年かってやっと実現。彼の自宅に近いたまプラーザの駅で待ち合わせたが、一目でMさんを見つけた。彼もにこにこしながら、近づいてきた。分かんないかもしれないぞ…と言っていたのは、全くの杞憂。

 11匹もいると思っていたシュナウザーは実は1匹で、あと10匹はシェルティーだったとか分かって、大笑い。20年間の誤解が解けた。

 二人ともシュナウツアーが大好きで、そんな話をし、二人の距離はまるで昔と一緒。 あっという間にタイムスリップして、1990年当時と同じ距離感で、話が出来るようになった。親しい友達の特権だろう。

 僕は、遺伝性の心臓病を持病に持ち、彼は、心臓血管系の病気の経歴の持ち主。今後、再発は無いと保証されているわけではない。フォローアップして、悪い状態を先取りして、手を先に打つしかない。歳は少しずつ進んできて、気がつくと、歳とっている自分を発見して、あっと思う。

 カウンセラーの悪い癖で、最後に人生での自覚する悔いなどを話題にしたら、しばらく考えていらして、そんなものは僕には無いなと言われた。Mさんの、あったかく人を包み込む明るさは、ここからきているのだと納得した。
今度は何時会えるかな…。


<Mさんと>



9月:20年ぶりにIBM大和の元管理部長、MSさんと会う 横浜高島屋

 Mさんに会ったのに続いて、前から会おう会おうといいながら、延び延びになっていたMSさんと、やっと会えた。彼とは、僕が大和IT部長の頃、外部監査で、有名なプライス・ウオーターハウス(PW)の監査を受けた時に、共に戦った戦友。

 どう戦ったかというと、PWの監査人が、what if, what if の条件を積み重ねて、大和の管理システムの脆弱さを中間報告で指摘してきた。とんでもない。MSさんと、僕は作戦を練り、「三つの条件を一人の人が設定できるわけではないし、その同時性も、担保するのは厳しい環境だ」と反論した。これが戦い。

 結果としては、PWの監査人が折れて、最終報告書では、若干の危険があると述べるにとどめてあった。「改善命令」か「改善勧告」がPWから出ていたら、それに応えることをIBM本社から求められ、不要なシステム変更とか、進捗状況報告が必要になっていただろう。それを、二人で戦って阻止したわけだ。

  動物の感情とか思考が信じられないとの言葉を漏らしたMSさん。また、動物の素晴らしさを話してみたいです。また会いましょう。


<MSさんと一緒だった大和ビル>


12月:25年ぶりに元IBM藤沢工場長、KNさんと会う 大磯プリンスホテル

 僕のIBMでの経歴の中で、一番救われた上司だったKNさん。

 どこかで書いていると思うけれど、僕が35歳の頃、課長としての僕の失敗、酒気帯び自損事故を失敗と認め、即、僕を課長から首にし、しかし、そこからの再起を許可してもらった恩人。彼がいなかったら、僕は、そこから這い上がることは出来なくて、その後のIBMの素晴らしい日々を送ることはできなかっただろうと思っている。

 約3年間のペナルティーボックス入りは、僕に、それまでの僕の仕事ぶり、部下との関係の問題点を気づかせてくれた自省の時期だった。課長を離れて、彼の言葉通り、マイナーペナルティー(アイスホッケーの罰則を思い出していただくと、よく分かります)で彼の補佐をやらせてもらった。

 そこから、もう一人の僕の救い主、社外のO先生のコーチングを受けながら、人のパーソナリィテーの研究をはじめたのだ。それが、僕の第二の人生の仕事になっていった。この意味でも、KNさんには、大きな恩義を感じている。

 カスケットリスト(棺桶リスト)に乗っけて、早くからお会いできたらと思い続けていた僕。賀状のお付き合いは、それこそ25年以上、続けてきた。彼の癌の再発もなく、ゴルフを再開されていると賀状で知り、是非お会いして、積年のお礼を申しあげたいと思ったわけだ。

 彼は胃がんで、胃の全摘出をされている。8歳年上でもあるし、何所で会おうかと迷った。彼は小田原の二宮にお住まいだ。昔よく知っていた藤沢の町も、今は全く土地勘がない。かといって、二宮、小田原には自信の持てる店がない。最後に思い付いたのが、個人でも、仲間でも使っていた大磯プリンスホテルだった。


<KNさん>

 窓の外に広い相模灘を明るく見ながら、嬉しい時間を過ごすことが出来た。彼も、誰にも内緒だった話などを披露してくださり、新しい発見があったりもした。僕は知らなかったのだが、日本で初めての多品種少量生産の集積回路、自動組み立てを決めたのが、彼だった。

 僕は、アメリカ・テキサス州のオースティンまで調査に出かけて、目的に合ったアプリケーションを見つけ出した。そして、実質的なシステムとして導入したのが僕だった。共通の達成感のある仕事の記憶がよみがえった。

 そのプロジェクトで、僕がドンドン金を使うので、ひやひやされていたと聞かされた。当時の僕には、そんな頓着はなかった。周りが見えない癖が出ていたのだ。

 これからも、連絡を取ってまたお会いすることにして、大先輩に車で大磯駅まで送ってもらった。その車の中で、鳴っていたのはモーツアルト。これも発見だった。