M.シュナウザー・チェルト君のパパ、「てつんどの独り言」 

「チェルト君のひとりごと」は電子ブックへ移りましたhttp://forkn.jp/book/4496

乃木坂・新美術館 

2018-03-25 | エッセイ


乃木坂の国立新美術館は、これで三度目。東大生産技術研究所跡地に、2006年に完成した黒川紀章の最後の作品だ。

美術館に行くのには、三つほど理由がある。まずは見たい展覧会。二番目には、顔を出しておかなくてはならない展覧会。そして、その美術館そのものに惹かれてぶらりと出かけてみる、の三つの動機だ。

今回の新美術館行きは、この三つがすべて重なった珍しいケースだった。



<ビュールレコレクション>

まずはスイスの個人収集家、ビュールレのコレクション、「至上の印象派展」をみる。日本初公開の印象派の絵が多数あるので、前から行くと決めていた。ただし、5月7日までやっているから、急ぐ必要はないと思っていたが、先日、親父のお弟子さんから電話があって、3月5日まで、親父が育てたグループ展を新国立でやっていると聞いた。長く、見ていなかから、顔を出すことにした。

ビュールレ展については、個人のコレクションだから、そのコレクターの意図が、強く出る。それが受け入れられるか否かによって、印象が変わってくる。今回の展覧会は、64点の作品を陳列したものだった。

個人のコレクションだから、その家に伝わる人たちの肖像画がズラリと、第一室で観客を出迎える。中には、ドガとかルノワールの筆になるものもあったが、ほとんど遠くから眺めて、素通りに近い。次のヨーロッパの都市の部屋も、個人的には魅力はなくて、ざっと見まわし、僕のアンテナにひっかかったものだけを見る。モネもあったが、ちょろりと見ただけで通り過ぎた。19世紀のフランス絵画という部屋は、クールベ、コロー、マネなどの作品があったが、5分間の滞在でおわり。

その後に期待をかけていた、印象派の絵たちが続いた。

第4室は、マネとモネの作品の前で足を止めた。モネのジベルニーの庭は美しかった。第5室は、ドガとルノワール。ルノワールの本邦初公開の可愛いイレーヌのふさふさした髪は美しかった。第6室と第7室は、それぞれセザンヌとゴッホ。セザンヌは好きだけれど、今回の作品の中には、見るものは一点しかなかった。ゴッホは、もともとあまり好きではないので、部屋も真ん中に立って、ぐるりと見まわして終わりだ。



<ジベルニーの庭>



<ルノワールとセザンヌ>

第9室は、後期印象派の画ということで、ピカソ、ゴーギャン、ボナールなどの絵が並んでいる。ここでも彼らは、僕には訴えかけてこなかった。

この展覧会で、一番良かったのは、第10室のクロードモネの「睡蓮の池、緑の反映」の大作だった。日本では初公開だとか。



<モネ>

モネは、僕の大好きな作家のひとりで、パリのオランジュリー、マルモッタン美術館、ニューヨークのMoMAなどでたくさん見ているが、今回の絵は色鮮やかで、自己を没入して眺めていることが出来た。そして、予想しなかった収穫は、日本では初めて写真撮影が許されていたことだ。つまり、マチエールを詳細に眺めることが出来、自分の写角でカメラに収めることが出来た。こうでなくっちゃと感動した。

だいたい、日本の美術館ではフラッシュ無しでも、撮影禁止となっているところがほとんどだが、このモネの大作は可能だった。素人が写真を撮っても、ビジネスにつかえるほどのものではないのだから、ヨーロッパ並みに自由にしてほしいものだが。



<新構造東京展>

親父のお弟子さんたちがやっていたのは、上野の都美術館で毎年、公募展をやっている新構造社という美術団体の一部が、ここ5年ほど国立でやっている構造社東京展というグループ展だった。

本当は落(らく)の5日に行く予定だったが、大雨の予報が出たので、急遽3月4日に繰り上げたから、絵は見たが、お弟子さんたちの顔を見ることはできなかった。それでも、記憶の残っている名前の下に、どこか親父の絵を思い出させる要素があって、懐かしい気持ちになる。

日本の公募展は、どこでもそうだが、まるでヤクザの団体のように見える。親父がくたばった時、その20名ぐらいのグループの頭をだれにするかで議論になった。僕にもお声がかかったが、絵を描かない頭は…ということで、自分たちで決めてもらった。同じ仲間の中から、親父の後継者は決まった。よかった。きいてみると、跡目相続の問題は、東京谷中だけの問題ではなく、親父が開拓した、広島、長野のグループでも大変だったようだ。特に、他の団体から、まとめて面倒見るから、こちらに移って来ないかと声がかかったようだ。頭の下にお弟子さんが10人いれば、月々の指導料として10人分の金になる。まして本展に出品するとなったら、特別な指導料が入ってくるし、いい稼ぎにもなるのだ。つまりヤクザの島のようなものなのだ。



<オープンテラス>

新国立の薄い水色の貝殻のイメージのカーブは大好きだ。豊かな気持ちになれる。残念ながら、緑は未だで、枯れ木の中のテラスではちょっと寂しい。五月にでもなれば、緑が濃く、木造の広テラスも美しいだろう。

新国立で残念なのは、昼飯を気楽に食べられるところがないことだ。3階のポールボキューズでは、ランチで2、200円~とある。2階に降りて、サロンド テ ロンドでもムース、アイスクリーク乗せで1,400円ときた。地下のカフェテリアには庶民的な食べ物がありそうだけれど、こんなところでわざわざ地下には潜りたくはない。結局、オープンテラスで、サンドイッチとコーヒーということになる。

横浜への帰りは、乃木坂から原宿、品川経由で半日の旅を楽しんだ。やはり、外に出かけるというのは楽しいことだ。

P.S.
2018年の新構造の本展は、上野の都美術館で6月23日~30日に開催される。




新しい試みとその顛末記

2018-03-11 | エッセイ



 ネットで、講座を聞いたり、解説を読んだりして勉強しているが、やはり物足りない。

 そこで、外の新しい知識を得ようと、この数年、横浜の各大学の公開講座、授業をチェックしていたのだが、これという講座には出会わなかった。見ていたのは、横浜市大、横国大、神大、関東学院だった。やっと、昨年(2017年)の秋、おもしろそうな公開講座を見つけた。それが、建築、環境学部教授、黒田先生の「イタリア都市紀行」だった。



 <学院パンフレット>

 10月初めから、7回にわたって、今年(2018年)の1月までのコースだった。ローマ時代からあるエミリア街道に沿って、主として、エミリヤ・ロマーニャ州の7つの都市を、起源から説き起こし、都市の歴史、街並み、建物、歴史を解説して、その町を深く知るための講座だった。

 学生証に代わる公開講座受講者証を作ってもらって、楽しみに出かけた。まあ50年以上昔の大学の雰囲気を味わいたかったし、教室のベンチに座ってみたいという素朴な欲望もあった。さらには、次のイタリアへの旅の計画の参考にもしたいと考えていた。



 <キャンパス風景>

 講義の内容としては、自分の好みが入り、すべての都市が面白いわけではなかった。僕にとっては、フェラーラ、モデナ、マントヴァ、そして最後のパルマが興味の街だった。

 講義はプロジェクターを使って、うす暗い中で、先生のレーザーポインターを追いながら、もらった資料に目を通し、メモを取っていくという形になった。しかも、僕たちの教室は立派で、スクリーンに向かって、階段状に椅子が横に並び、受講者の視線が交わることはない構造だった。みんなが一点を見つめて、講義を聞くことになった。これでは、受講者同志は、無関係の関係。



 <講義風景>

 お互いの笑みだったり、顔に浮かんだ疑問符だったり、ウンウンといった頷きだとか、えぇ~という驚きだとか、面白いなぁという感情だとか、お互いにこうしたしぐさを知ることは出来なかった。つまり、その世界を共有することが全くできなかったのだ。

 勿論、講義の内容は面白かった。イタリアは150年前まで、統一された国ではなく、各都市が自分を独立国家のようにふるまい、文化も、派閥も、各々みんな違ったようだ。ローマ教皇派(キリスト教)と、ドイツ皇帝派がこのエミリア・ロマーニャ地方で覇権争いをしていて、各都市が独自に自分の属する派を決め、それに従って都市設計も、建物の作り方も、違ってくるなんてことは全く知らなかった。

 リミニ、ラヴェンナ、フェラーラ、ボローニャと、1都、1講座で講義は進んだ。



 <フェラーラの古地図>



 <フェラーラの写真>

 4回ほど、講義を受けたときに、こんなことを感じた。

  ・先生からの一方通行で、質問の時間がほとんどない
  ・受講者同士の横のつながりが全くない
  ・現役の学生も含めて、自己紹介もない
  ・したい質問もたまって、欲求不満を感じる

 そこで事務局に、先生を囲んでの「質問しよう会(仮称)」でも開いたらいかがでしょうかと、申し入れた。僕には、もう一つの期待があった。それはできれば新しい友達を作りたいということだった。年を取ると、友達は減っていく。天国に召されたり、音信不通になったりと、減る一方だ。できれば、グループを作って、同じ興味を持った人と一緒に語り合えたらいいなあという、希望さえ膨らんでいた。



 <マントヴァの古地図>



 <マントヴァの写真>

 事務局は僕の提案を受けて、積極的に動いてくれた。先生からOKを得て、学生食堂に僕たちの席を確保してくれ、職員の同席も手配してくれた。何か僕がやらなくてはと思っていたのだが、結果としては事務局が主催者になってくれて、「先生を囲んでの食事会」というメモを作成し、6回目の講義の開始時に全受講者に配布して説明し、講義後、出欠を各自に自由に決めてもらい、それを集計するということをやってくれた。結果は、40名中、15名くらいの参加が確認できたようだ。提案者の僕は、一安心。

 先生を囲む会は、最終の7回目の講義、パルマの後の時間に予定された。もちろん、僕も参加すると、記入した。

 僕は準備として、6回の講義資料を読み直し、僕自身が聞きたいことをまとめてみた。質問をするための先生を囲む会なのに、質問が出なければ、まずいと、質問をまとめてメモに残した。たとえば、「エミリア・ロマーニャ州というのは、一言でいうと、イタリアではどういう位置づけの州なのか」とか、「ポルティコという建築様式は、なぜエミリア・ロマーニャで流行ったのか」とか、5個ぐらいのオープン・クエッションを作って、楽しみにしていた。



 <パルマの写真>

 最後の7回目は、友人だったオルネッラさんの出身地、パルマ。生ハム、パルミジャーノ・レッジャーノ(固いパルメザンチーズ)、バルサミコ酢などの産地で、7回の講義の中で、一番期待していた講義だった。

 しかし前日、僕は風邪をひいて熱を出し、咳も激しかったので、仕方なく事務局に電話して、言い出しっぺが申し訳ないが欠席しますと伝えた。残念無念。

 後で事務局に連絡したら、他にも風邪での欠席が出たようだけれど、12人くらいが、先生を囲む食事会を、満足し楽しんだと聞いた。よかった。

 しかし、僕は質問も、新しい友達もできなかった。僕は舌打ちをしながら、自分自身につぶやいた、「なんてこった」と。

 春に新しい講座が開かれたら、参加して、先生と出席者たちと、事務局に謝らなければと思っている。



 P.S.

 マントヴァの写真は、BMK さんのマントヴァをお借りしました。
 クレジットは、Creative Commons 2.0です。

 パルマの写真は、Carlo Ferrari さんの パルマ をお借りしました。
 クレジットは、Creative Commons 3.0 です。