M.シュナウザー・チェルト君のパパ、「てつんどの独り言」 

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チェルト君のスナップ Ⅲ (最終回)

2013-10-26 | M.シュナウザー チェルト君のひとりごと

11.仙台の生活

仙台の生活が始まったよ。
ガーデンテラスもある立派なマンション、ラピュータの住人。



でも、食いしん坊は変わりません。






12.癌が見つかった

僕の口の中に、癌が見つかった。
優しくなった、お父さんとお母さん。
でも僕は、そんなこと、知らない。






13.癌が進む

厳しい冬と楽しい春。



でも、僕は日に日に痩せていって…。




14.ある日のスナップ

のんびりお昼寝。



あっ、舌が出てるぜ!



15.僕と一緒に天国に行ったワニさんたち

大好きだった、ワニさんや、トドさん。
そして皮でできた靴やクマさん。ゴルフボール。
みんな僕と一緒に天国に来ています。






これで、スナップで残っていたチェルト君の写真集はおしまいです。


物語は、ブック「M.シュナウザー チェルト君のひとりごと その2」に。http://tetsundojp.wix.com/world-of-tetsundo ⇒ エッセイ へ 

「お袋」は生きていました!

2013-10-14 | エッセイ

 先日、スペインの友達を失った僕は、急に気になりだしたことがある。

 それは、僕の心のお袋、ミュリエル ジェームス博士の消息だ。

 彼女は今、推定、97歳。98歳かもしれない。彼女が正確な年を教えてくれなかったからだ。1991年に会った時、75歳と言っていたから、計算上は98歳。



 心のお袋というのは、僕自身が生まれてこの方持っていた心の傷、僕自身は気がついていなかったのだけれど、それを明らかにして、新しい僕を生きることが出来るようにしてくれたという恩義があるからだ。今の僕を生み出した本当のお袋さんなのだ。

 実の母は、とっくにくたばっている。僕が小学3年か4年の時に実母は離婚して家を出た。結果として僕は捨てられたのだ。

 ド田舎に住んでいる洋画家絵描きの景色は、決して豊かではない。親父とお袋、親父の母、つまり僕のおばあちゃん、姉二人の6人を、絵なんか買う人のいなかった昭和24~5年に、親父は食わせていかなくてはならなかったからだ。

 親父は東京のアトリエを3月10日の東京大空襲で焼け出され、山一族が昔から住む岡山の山の中の遠縁を頼って、6人で疎開した。親父は太平洋戦争以前には、1930年協会などに参加して、一応、飯が食える絵描きだったようだ。特に、建物、キリスト教会に限ると、結構知られていた画家だったようだ。今も、港区の霊南坂教会には、親父が描いた教会の絵が残っている。

 しかし敗戦で、絵を描いて売るっていう生活は成り立たなくなった。土佐の名家の出のお袋にとって、姑との折り合いの悪さも加わって、結果としては僕のすぐ上の姉を連れて土佐に帰って行った。上の姉は、僕より10歳以上も年上だったから、小学校の先生をしながら、自立していた。残ったのは僕とおばあちゃんと親父だけ。

 貧しかったから、ほとんど毎朝、僕がお豆腐屋さんに、ただのおからを貰いに行っていた。もちろん弁当なんて学校に持って行けるわけはないから、昼休みに走って家まで帰って、おばあちゃんの作ってくれた芋粥をすすって、また学校に走って戻っていた。

 こうした極貧の中に育った僕だったから、親父は僕の高校から上の学費は出せなかった。自分で考えろと言われたのが中学2年生の終わり。それから、担任の先生、日本奨学会の特別奨学金、アルバイトなどで、なんとか大学卒業まで自力でやって来た。そんな僕だから、いわゆる普通の家庭の味は知らなかった。仲の良い親父とお袋、幸せそうな子供たち、なんて景色は持てなかったわけだ。

 親父は友達の奥さんと親しくなって、僕の母として家に入れた。多感だった中学生の僕との間は、妥協は成り立たなかった。

 大学はバイトと授業料免除で、やっとこさ卒業した。

 会社に入って、僕を待っていたのは、人とのつながりの欠如の問題だった。なんでも一人でやって来たから、グループでしかできない会社、社会の仕事はまったく不向きだったわけだ。

 一人でやれる間は、全く問題を感じていなかった。しかし、課長職になった途端、僕は、うまく仕事を進められなくなった。課の8割の部下が、僕とは仕事をしたくないと評価した。これでは仕事にならない。僕は自分ではどうしたらいいのか、全く分からなかった。

 こんな状況にいた僕を救ってくれたのが、心の親父、故岡野嘉宏先生だった。彼が、僕のコーチングをしてくれて、僕自身がどう歪なのかを知る手助けをしてくださった。それが僕のTA(交流分析)心理学との出会いだった。自分を知ることで、他の人とのコミュニケーションがうまく取れるようになっていった。

 ミュリエルに出会ったのは、岡野先生の紹介で僕が参加した、カルフォルニアとネバダにまたがるタホ湖でのインターナショナル・ワークショップだった。このワークショップの主催者が、優しいおばあちゃん先生、ミュリエルだった。

 TAの基本はグループワークだ。3週間、24時間、世界中から集まったいろんな人たちと過ごしていると、素の自分、本当の自分がさらけ出されてくる。それを、フィードバックしてもらって、自分を知るわけだ。

 そこで明らかになった僕の心の闇は、小学生のころから、自分で生きた代償としての寂しさだった。小さい時に、優しく、温かく背中を撫でられたり、優しい言葉をかけられたことがないという体験が、心の中に溜まりこんでいた。

 結果として、人との親密な関係を築くことが出来ていなかったという発見だった。僕は湧き上がってくる寂しさの感情をおさえられなくて、ワークショップのみんなの前でオイオイ泣いた。僕の前に、この心の闇を引き出してくれたのが、僕の心のお袋、ミュリエル ジェームス博士なのだ。




   <室内ワークの様子>

 つまり、僕のその後、二番目の人生を始めることが出来たのは、間違いなくミュリエルの存在があったからだ。

 ミュリエルは、2010年に一人息子のジョンを亡くしていた。子供に先立たれるのは、心理学者のミュリエルにとっても、越しがたい絶望的な出来事だったに違いない。彼女はその数年前に、夫、アーニーもなくしていた。だから、彼女は一人ぼっちで取り残されてしまったわけだ。

 あやまって転倒し、骨折をしたミュリエルは体調を崩し、老人性の骨折を繰り返し、いわゆる痴呆症が発症してきた。

 ミュリエルとは、1991年のワークショップ以来、年に数回は電話し、手紙を書き、Xmasカードを送り、お気合いを続けていた。しかし、最近は、だんだん痴呆も加わってか、電話しても全く会話にならなくなった。

 そして、2011年のXmasカードを最後に電話でも、手紙でも連絡が取れなくなった。

 最悪を覚悟しながら、彼女の名前を冠した賞を出している国際TA協会(ITAA)にメールした。彼女の消息を求めて。

 ITAAは、彼女は依然としてITAAのメンバーだと、教えてくれた。つまり、生きているって事が分かったわけだ。ITAAや、日本TA協会の人の助けもあって、ミュリエルが生きていることが分かった。助かった。

 カリフォルニアの住所に、改めで絵ハガキを送った。なんとか、返事が来ることを祈っている。

 「お袋」を失くしたくはないのだ。

イグナチオの死

2013-10-03 | エッセイ

スペインから届いたメールは、僕の知らない人からだった。

しかし、それは悲しい便りだとすぐにわかった。
僕には、スペインには一人しか友達がいない。彼の名前は、イグナチオ ツーター。スペインの古都、サラゴサというローマ時代からの古い町に住む歯科医。



妹さんからの死亡の知らせだった。59歳で、ジョギング中に自動車にひかれて死亡したと言う。元気で過ごしていたのに…。

彼とは、もう20年来の友人。

アメリカ、カリフォルニアのタホ湖で開かれたTAのインターナショナル・ワークショップで3週間を一緒に過ごした仲だ。

そのワークショップは、世界中から、人種、言語、宗教、金持ちと普通の人、ジェンダーなど、全ての属性に関係なく集まった20名くらいでのワークだった。共通言語は英語。僕がおばあちゃん先生と呼ぶミュリエル ジェームス博士の主宰する例年のタホ湖での夏のワークショップ。

僕の動機は、転職の希望を持って勉強していたTAへの理解を深めるためだった。同時に、離婚問題で子供たちをどうしようかと悩んでいる時期だった。

おばあちゃん先生は、参加者全員を5~6個のコンドウに割り当てた。僕のコンドウにも5名の“家族”が生まれた。この5名は、ワークショップの一週間単位は、24時間一緒に暮らす。そこでは、自然発生的に“家族”の役割が出来てくる。この単位で、朝食も、昼ごはんも、夕食用の買い物も、夕食の準備も、復習も、遊びもする。

これだけ密な時間を過ごすと、ドンドンその人の、素の姿が明らかになってくる。繕いの顔では過ごせないのだ。

別のコンドウだったけれど、イグナチオとは、どういう訳かすぐに親しくなった。どこか、人見知りで、憎めない奴だった。そして、美しい目をしていた。彼の参加の動機は、他人とのやり取りを自然なものにするためだったと記憶にある。



TAは基本的には、グループワークが基本だ。ミュリエルの理論的な解説は、具体的なワークをした後に明かされる。単にクラスでTAの理論を教えるわけではないのだ。だから、楽しい。

3000mを超すシェラネバダ山脈のど真ん中に、他の人には会わないようにして、ひとりぼっちで心を空にして1時間以上、自分だけの時間を過ごすフィールドワーク。心を空にするとは、シェラネバダの大自然の中に身を置いて、何も考えないで、深い森とか、小川かとかの自然だけを感じて過ごすことだ。

そして心が空っぽになったら、今度は意識を集中して、目の中に飛び込むものを探すのだ。いろんなものに意識を集中して、自分の心に語りかけてくる物の出現を待つ。そこで、自分に訴えるもの、何かが感じられたら、それを観察して、それはなんだと見据えてみるのだ。すると、それは自分の心の中に存在する何かだと気がつく。

ここに、自分の持っている心の問題を解くヒントがあるわけだ。僕には、僕の心の中にあった、深い寂しさを見つけ出す糸口があった。木の切り株が優しい、信頼でつながった愛犬の姿に見えたのだ。僕自身は、あいらしいものを常に欲しいと思っているのだと…。

イグナチオとは、ネバダのカーソンシティにある温泉プールでの“プーリング”というワークを一緒にやった。

このワークにはいくつかの意味があって、一つ目は母親の子宮の中に漂う自分の浮遊感を感じて自分の原点に戻ること。自分は守られているという感覚を大人になった自分が実感すること。

二つ目は、他の人を信頼して、自分を委ねるということを体験することだ。イグナチオと僕はペアーとなって、一人が自分でプールに浮くことが出来るように片方がサポートすることだ。人間は肺の空気だけで、本当は浮けるのだ。

僕は、彼のサポートを受けて、簡単に自分で浮くことが出来た。イグナチオがすぐ側にいて、僕が沈みそうになれば助けてくれるわけだ。委ねることだ。

しかし、イグナチオは簡単には浮かなかった。体のどこかに緊張して不自然なところがあると、すぐに沈み始める。自分を誰かに委ねるということが出来ないと、浮けるものではないのだ。何度も、イグナチオは沈みそうになり、僕の差し出す僕の腕の上に彼の腰は支えられて沈まない。



何回目かのトライで、僕は信頼されたのか、フッと彼は浮くことが出来た。僕もそうだったけど、彼の涙があふれた。それこそ他の人を信頼することが出来るということの証だ。

こうして友達となった二人は、3週間のワークショップが終ってからもサンフランシスコを一緒に歩いて、一人だけでは味わえない、心の共感を確かめたのだ。

その後、20年以上、クリスマスカード、時々の電話、メールの交換で、友達でいた。2008年にサラゴサで行われた「水のEXPO」の年には、サラゴサにやって来いと誘いを受けたけれど、残念、僕の心臓君がウンと言わなかった。

イグナチオの死で、僕が毎年出すクリスマスカードの3枚の一枚が出せなくなった。後の二枚は、僕が若いころに駐在したミラノ・モンツァの古い友人と、もう98歳になる、タホ湖のワークショップのおばちゃん先生のミュリエルだけになってしまった。ミュリエルとは最近連絡が取れない。心配している。

ミュリエルには、今日絵葉書を出した。何か反応があることを願っている。