M.シュナウザー・チェルト君のパパ、「てつんどの独り言」 

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アムステルダムと聞くと…

2014-04-17 | エッセイ

 最近、知人がチューリップ柄のネクタイをつけた写真をSNSにアップした。春の短い時間しかつけられない柄だという。パステルカラーの浅い春を思わせる柄だ。これでビジネスに行くという。ネクタイにも季節感があるということだ。

 チューリップの季節と聞くと、僕はアムステルダムのチューリップを思い出す。アムステルダムの郊外のキューケンホフ公園はチューリップとヒヤシンスが売りもので、花の期間しか立派な庭園を公開しない。後は一年中休みだ。本当に贅沢なチューリップ公園だ。



 ①

 アムステルダムと聞くと、いろんな思い出がドッと湧きだしてくる。これまで書いたことがないから、ここで書いておこうと思う。

 東京駅の原型と云われているアムステルダム中央駅の近くから出るボートに乗って、水面から見るアムステルダム、この時期、いいだろうなと思う。岸に植わる木々の花が、水面にまで垂れてきて、その中を行く。運河にはレストラン船(はしけ)が連なって浮かんでいて、光り輝くレストラン街となっている。

 アムステルダム国立美術館で「夜警」を見たのも印象的だった。暗い美術館を歩いていくと、あのレンブラント光線に照らし出されて、大きな絵が暗闇に浮かぶ。僕には、デルフト派の画家というと、フェルメールとレンブラントくらいしか好印象は無い。オランダと言えば、ゴッホがあげられるけれど、彼はフランスの画家と僕は思っている。

 アムステルダムには、今まで誰にも話してない思い出がある。

 僕のみつけた酒場は観光客相手の店ではなく、でも、大胆な造りだった。バーカウンターに座ると、自分の膝のあたりに大きなまるい穴が開いている。実は、そこから、客は手を入れて、カウンターの内にいるバーマンかバーウーマンに触れられる構造になっていたのだ。残念ながら、勇気がなくて、僕にはできなかったが…。

 新しい店に入ると、僕はなぜか少し緊張する。薄暗い酒場はさらに緊張する。飲み物を貰って少し落ち着いて、やっと店の中を見る勇気がわいてくる。

 テーブルが10席ぐらいと、後はバーカウンターが主な店だった。2~3席離れてカウンターに並んで一人で飲んでいる女性の横顔をみると、どうも東洋人。

 その酒場で出会ったのは、30代後半の日本女性だった。彼女のご主人はオランダ人で、船に乗って航海中。一人で酒場にのみに来ていたのはそういう訳だった。

 隣に座ってもいいかと聞いたらどうぞというので、僕は席を変えて彼女の隣に座った。彼女には久しぶりの日本語のようで、問わず語りでよくしゃべった。アムステルダムの日本人妻の話は面白かった。しょっちゅう長い航海で家を開けているご主人との希薄な空気が、ちょっとした寂しさを彼女にもたらしていたに違いない。僕は聞き役にまわっていた。

 何を飲んでいたのか分からない。オランダというとビールが常識だけれど、おそらく僕はオランダのジェネーバラというジンを飲んでいたと思う。もともと、僕はジンのロックが好きだったから、このジェネーバラも気に入って楽しく飲んでいたのだと思う。つまみは、おそらくへリングの酢漬け。

 気持ちよく二人で酔って、そのまま別れたくない気持ちになっていた。もう少し、一緒にいたいという感じだった。僕自身もヨーロッパで、2か月のグループの仕事を終えて日本に帰る途中の休暇で一人で訪れたアムステルダム。どこか、開放感を感じていたに違いない。そして、人恋しくもあったのだろう。

 しかし、その日はもう遅くなっていた。その日はオランダの海、ボーレンダムの潮風に当って疲れていた。ホテルに帰って、眠りたいと思った。

 もう一度、次の日にここで会えるかと聞いたら、OKが出た。気に入っていたのだろう、お互いに。

 アムステルダムには有名な飾り窓の町もあるし、その頃でも大麻は自由だった。何だか陽気な国だった。セックスに対しても、解放的なのだろう。行政が管理する、健康だという保障つきの公娼は、オランダの他にドイツ、スイスにもある。最近のニュースによると、スイスにはドライブ・スルーでのセックス・ハウスもあるくらいだ。ちょっと脱線。



 ②

 そんな解放感もどこかにあって、二人はお互いに次の夜、会う約束をしたのだと思う。

 次の日、チューリップで名高い、期間限定のキューケンホフ公園を見に行った。海面すれすれの国、オランダの排水の為の風車の村も見たりして、アムステルダムに戻ってきた。そうそう、オランダにも、日本の農家の屋根のように、かやぶきの家があるのを見つけたのは、このバスの旅だったと思う。



 ③

 約束の時間に酒場へ入った僕を、彼女は手を上げて、ここよと、テーブル席に導いた。

 僕の泊まっているホテルで一緒に飯を食おうということになって、会社が予約した立派なホテルに戻った。ラウンジを抜けて、ホテルのレストランで食事をした。しかし、二人とも、食事が終わった後のことが気になって、なかなか落ちつかない食事だったのを覚えている。

 僕の部屋に入って、掛けなよとソッファを指さした。当然の成り行きでキスをした。柔らかい体を抱きしめて、唇を重ねていた。優しくベッドに倒してキスの続きをしていた。彼女も積極的だった。もう僕の頭には次の展開が広がっていて、熱くなっていた。

 しかし、突然、彼女は身を起こして、帰ると宣言した。なぜと聞いたけど、答えはなかった。きっと、自分の中にいる別の自分が、自身の姿に気づいたのかもしれない。

 彼女がドアを閉めて出ていくのを、僕は止めることはできなかった。一人で、呆然としながら、残念だったなぁと思った。

 次の日、チャリやトラムの行き交う街を歩いた。美しい町だった。ダム広場の近くに見たのは傾いた家たち。地盤が軟らかいからなのか、建物の重みで、前に後ろに、勝手に傾いている街並みを発見。歴史があるのだなあと感じた。昨夜のことは、消化不良で、喉に引っかかったままだった。 



 ④

 スキポール空港で、恥ずかしい日本人客を見た。免税店の通りの真ん中に、円形のキャッシャー・カウンターがあって、そこでは一人の女の人が対応していた。こんな時、前の人が終ったら、自分の支払いを頼むのが常識だ。

 しかし、その円形のカウンターを日本人の女性のグループは四方から取り囲み、支払を一人のスタッフに口々に要求するのだ。キャッシャーは、軽蔑の表情を見せながらも、一人ずつ、一人ずつと言いながら、静かに対応していた。見ている僕は、ちょっと恥ずかしかった。

 空港で、形いいボルスのボトルに入ったジェネーバラを自分の土産として買った。離陸したKLMの窓から、チューリップの絨毯が見渡せたが、高度があがるにつれてすぐに雲の下に見えなくなった。

 あれから40年。あのアムステルダムの夜に喉にひっかかった小骨のような思いは、消えないでいる。



<借用した写真のクレジット:下記のとおり、全てflickrからのものです>

①は、Swimmerguy269さんの“アムステルダム” 
クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
この 作品 は クリエイティブ・コモンズ 表示 3.0 非移植 ライセンスの下に提供されています。

③は、Paul Asma&Jill Senolele さんの“キュッケンホーフ”
④は、Mauroさんの“アムステルダム“
クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
この 作品 は クリエイティブ・コモンズ 表示 2.1 日本 ライセンスの下に提供されています。

「フィアット:モデルの歴史 1899から今日まで」を読んで

2014-04-03 | エッセイ

 最近、ネットでミラノの夕刊紙、Corriere della Sera を読んでいたら、こんなコラムに出くわした。 
 
 Fiat: la storia dei modelli dal 1899 a oggi



 懐かしくなって、全てのモデルたちの姿を眺めてみた。もちろん、僕が知っているモデルは1969年以降のモデルたちだけれど、懐かしさがいっぱいで楽しめた。

 どこかで書いているけど、僕が自分の車を最初に買ったのは日本でではなく、イタリアのミラノだった。ミラノは駐在員として、2年ほど住んでいた街だ。

 会社は、それまではミラノ市内の東の端っこにあったのだけれど、業務を拡張するので、ミラノ郊外の地に新しいサイトを作った。

 当初は、市内のアスプロモンテ広場から、プルマン(イタリアでは長距離バスをこう呼ぶ)が20kmちょっとの距離を走っていたが、市内が混んできたら、出発地が地下鉄・赤い線の終点、ゴッバ駅に移って不便になった。プルマンは便数も、朝と夕方が主で昼間は走らない。

 自由がきかないから、車を買うことに決めた。

 イタリア人の人事担当者と一緒に、ミラノ市内に在ったフィアットの工場まで出向いて、まだ組み立てラインを流れている車を見て注文した。契約は100%の買い取りではなく、まずは2年間の契約で、初期基本価格と2年間の減価償却分を払うというものだった。契約期間が終わった時に残存価格を払うか、フィアットに買い取ってもらうかというオプションつきだった。

 それが、フィアット850スーパー。850㏄のエンジンを乗っけたかわいいRR車だった。エンジンが後ろについて、後輪を駆動する構造だ。RRはその頃、ヨーロッパで主流だった駆動方法で、フランス・ルノー、ドイツのフォルクスワーゲン・ビートルなども同じ駆動方法を採用していた。駆動輪に重心があるから効率的だったのだろう。逆にハンドルはすごく軽かった。



Fiat850s

 ハイギヤードで、平地はガンガン走る。150キロくらいの巡航が可能だった。しかし、登りは不得手で、アクセルを床にまで踏みつけてもスピードは上がらない。しかし、しかし、この車のおかげで、スイス、オーストリア、ドイツ、フランスと走り回れたのだから、忘れられない。

 僕の親しいイタリア人の友達は、憧れのアルファロメオのジュリエッタに乗っていた。運転させてもらったけれど、全くの別物だった。姿も美しかった。

 ダルなフィアット850だったけれど、愛嬌のある丸みのあるシルエットは、この車のちょっと前に出たイタリアの大衆車、フィアット500の後継車で、デザインも似たものだった。500は日本で言うとパブリカに相当する位置づけだった。



Fiat500

 この後、一時、駐在が途切れるけれど、4か月後にミラノに舞い戻っていた。仕事がうまく進まなかったためだ。日本の駐在員がいなくては、なかなか、約束通りにはいかないイタリアだ。日本の同僚は、僕がミラノに帰るために、細工をしたのだろうと皮肉ったりした。でも、ミラノに惚れていたから、喜んで単身で出かけた。



Fiat128

 その時の車はフィアット128という、前にエンジンを乗っけて前輪を駆動する、今では当たり前のFF形式の秀逸な設計の車だった。この形式を発明したのがフィアットだったのだ。それから今日まで、プロペラシャフトのトンネルの無いフラットな車内スペースを確保しながら、でかいエンジンを乗せられる形式として、世界中に定着していった画期的な車だった。

 850に比らべれて全く違う車だった。これなら、その頃のフィアットの花形だった124と張り合って、アウトストラーダを走ることが出来た。

 アウトストラーダも、フランスのアウトルートも、ドイツのアウトバーンもそうだけれど、運転していて、何を注意していなくてはならないかが、日本とはまったく違う。日本だと前を向いて、時々サイドを確認して、時々はルームミラーで後方を確認して運転するのが普通だけれど、ヨーロッパではそうはいかない。

 一番よく注意していなくてはならないのは、後方。スピード制限のない高速では、後ろから近づいてくる立派な車をできるだけ早く発見することが安全上、一番重要。ポルシェでもフェラーリでも高速車はブレーキをかけるということがないと知るべきだ。

 ポルシェの特徴ある姿をルームミラーで確認したら、とにかく追い越し車線から走行車線に戻って、追い越し車線を開けることが大切だ。ぴかっとパッシングライトが光ったと思ったら、もうすぐ後ろに車は来ている。僕の車が150㎞で走っていても、相手はその倍の300㎞で襲ってくるのだから、うかうかしているとはね飛ばされる恐れがあるのだ。何度か怖い思いをした。

 日本に帰ってきて、初めて日本の車を買えたのは、マツダのファミリアだった。理由は簡単。モンテカルロラリーで優勝した車だったからだ。

 最近、フィアット500に乗ることが出来た。新しい500だから、エンジンは1300CC。楽しい車だった。アウトストラーダを平気で160㎞位で走る。安定性は抜群だった。でもやっぱり、高速車には歯がたたない。やはり、道を譲ろう。



新しいFiat 500

 注:読んだ記事 “Fiat: la storia dei modelli dal 1899 a oggi”font>